深夜十二時、冷たい空気をかき混ぜるように電話が音を立てた。一回、二回、そして音を止めた。
突然のことだった。何の前触れもなく、陽子が言い出した。
「インドへ行くの。一人で。大変かもしれないけど。行ってみたかったの、ずっと前から。人生観が変わるかもしれないって言うし、自分を見つめ直すことが出来るかもしれないし。
うん。本当は今何をしていいのか分からないから、ただ逃げ出したいだけなのかもしれない。でも、もう決めたから。一週間か二週間。一月になるかもしれない。帰りたいと思うまで。
秀人に会いたいと思うまで。大丈夫。そんなに心配しなくてもいいよ。じゃあ、電話する。毎日、日本時間で夜中の十二時に。それくらいがいいでしょ。
いつも仕事で遅いから。呼び出し音を二回鳴らすから、それが元気な証拠。受話器は取らないでね。お金が掛かるし、それに会いたくなるかもしれないから。じゃあね」
あれから一週間。静けさを取り戻した部屋には、また冷たい空気が積もっていった。
何度も受話器を取ろうと思った。それで全てが終わるのなら、それでいいとも思った。でも、陽子ともう一度会えるのなら、笑顔で会いたかった。
もう何日この時間を過ごしているだろう。また秒針がゆっくりと頭を持ち上げ、そして重なった二つの針を追い越して行った。
電話が音を立てた。一回、二回、そして三回。鳴り続ける呼び出し音に戸惑いを感じた。そしてそれは不安へと変わっていった。僕は慌てて受話器を取った。
「ごめんなさい。直ぐに切るつもりだったんだけど。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんだけど。まだ何も見つからないし、何も分からないの。
時間だけは過ぎていくのに何も変わらないし、秀人に電話する時間ばかり気になってしまうの。段々焦ってきて、夜も眠れなくて、そしたらお腹を壊しちゃって。
薬飲んで一日中寝ていたら、私って何してるんだろうって、何でこんな所にいるんだろうって思って。秀人に会いたい。声が聞きたい…」
陽子は小さな声を震わせながら、僕に伝えてくれた。
どんな言葉を掛けてやればいいのか分からなかった。どんなに優しい言葉でも、創られた台詞のようで冷たいと思った。
僕は思ったままのことを口にした。
「もう、帰って来いよ。今度は二人でインドへ行こう」
受話器の向こうで、陽子は小さく頷いた。
2008年12月14日日曜日
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