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暑い夏は終わっていた。が、紅葉にはまだ早かった。空は青く、冷たい空気が秋の気配を醸し出していた。
風は木々を揺らし、僕の身体を包んでは通り過ぎていった。後には金木犀の香りが残っていた。
敷き詰められた砂利道を音を立てながらゆっくりと歩くと、二つの大きな鳥居が見えた。その奥に、沢山の人が集まっていた。皆が黒い服を着ているので、大きな黒い生き物が蠢いてるようにも見える。
暫く伸縮を繰り返していたその生き物は、突然広がるように変形し、視界から消えていった。
神殿が見えるところまで来ると、その黒い塊は、獲物でも狙うかのように息をひそめていた。
フラッシュがたかれる中、巫女に続いて和装の新郎新婦が横切っていった。新婦の白が一層輝いて見えた。
日曜日で大安ともなれば、橿原神宮では何組ものカップルが結婚式を挙げていた。
貴志もその中の一組だった。
一言声を掛けておきたかったのだが、大勢の人で探すのは難しそうだった。それに神聖で厳粛な雰囲気に包まれて、少し堅くなってしまっていた。
僕は、先に披露宴会場のホテルへ向かうことにした。
ロビーには拓也と郁雄が既に来ていた。二人は眠たそうな様子で、ソファに埋もれていた。
昨夜遅くまで二次会の準備をしていたのだから仕方なかった。
僕も二人の横でソファに埋もれ、披露宴が始まるまでの時間をそこで過ごすことにした。
親友の結婚披露宴に初めて参加して、何故か緊張していた。自分が結婚するわけでもないのにと思ったり、もしかして親の心境に近いものがあるのかも知れないと思ったりしていたが、緊張が解れることはなかった。
会場内を丹念にビデオカメラに収めている郁雄、友人代表としての祝辞を何度も読み返し練習している拓也、そして誰よりも緊張した面持ちをしている新郎の貴志。
高校からの友人が十年以上も付き合っていけるとは思ってもいなかった。
貴志は高校を卒業後コンピューター関係の専門学校へ行き、就職をした。四人の中では一番初めに社会人となった。一度は東京へ転勤となったが、環境が合わなかったのか言葉が合わなかったのか、帰ってきた。二度目の会社で亜矢子さんと出会い、一年も経たない間に結婚を決めた。
今、スポットライトに照らされている新郎新婦を、買ったばかりのカメラで追いかけている。目に涙が溜まってピントが合わない。これではいい写真が撮れないなと思いながら、やっぱり親の心境かなと呟いた。
大学を卒業して印刷関係の仕事を六年も続けてきたが、僕には合っていないように思われた。
スーツを着る仕事だけは嫌だと思っていた。クリエイティブな仕事という言葉に釣られ、企画営業という肩書きに惑わされて入った会社では、スーツを着て営業をしていた。
何度目かの退職願で、漸く希望が聞き入られた。だからといって、次に何をするか決めていたわけではなかった。暫くはのんびりするのも良いかなと思っていた。ただ、恋人の恵子にはどう話をしようかと考えていた。
恵子とは二年目の付き合いに入ろうとしていた。二つ年上の彼女にとって結婚は緊迫した問題だった。
恵子は大学の文学部の先輩だった。その時は友だちを通じて何度か話をしただけだった。その後に会ったのが、去年の夏。少し古い映画を見て外に出たとき、立ち尽くす恵子を見た。ハンカチで涙を拭っているようだった。そんなに悲しい映画だったかなと思いながら声を掛けた。
見たい映画が有るときには、お互いに連絡をして一緒に行くようになった。次第に映画以外でも会うようになり、回数も増えてきた。付き合ってるというよりは、良い友だちだった。キスをするまでは。
酔った勢いなのか雰囲気が良かったのか、突然僕は唇を重ねた。恵子は少しも抵抗することなく自然に受け入れた。
キスをして後悔はしていなかった。このまま付き合っても良いと思っていた。
帰り際、恵子は結婚という言葉を口にした。冗談っぽく言ってはいたが、真剣だと思った。僕にはまだ結婚は考えられなかった。キスしただけなのにという思いも強かった。もう少し付き合ってから考えても、遅くはないと思っていた。
退社が決まり、恵子にどのように話をしようかと考えていた。率直に話をして理解してもらえるなら、それでも良かった。ただ、結婚を意識している恵子に僕の気持ちが伝わるかどうか不安だった。考える度に弱気になり、伝える前から別れた方が良いのではと思うようになっていた。
「辞めてどうするの?」
恵子は冷静だった。僕は今考えていること全てを話すしかなかった。
「すぐに働く気はないんだ。ゆっくりと時間を使って、先ずは旅行かな。海外。一週間ぐらいのじゃなくて何週間か、一ヶ月くらいかな。行きたいところは沢山あるけど、アジアに一番興味が有る。香港。いろんな国から人々が集まって、一番賑やかそうだから。 中国とイギリスの文化が混じり合っていて、更に東南アジアなどから人が入って、正にアジアの中心といったところ。その中に自分を置いてみたい。それにインド。行くと世界観や価値観が変わるって言うから。はまってしまうか全く嫌になるか。 自分でははまってしまうかなって思ってるけど。多分、日本みたいにせかせかとした所はないと思う。のんびりとした感じ。牛が道路の真ん中で寝ていても誰も何も言わず、電車が時間通りに来なくても、着かなくても誰も文句を言わない。 言うのは日本から来た団体旅行者だけ。ガンジス川で泳ぐのもいいかな。聖なる川で全てを流してもらう。でも病気になりそう。
帰ってからは、旅行について或いは旅行で感じたことを元にして文章を書きたい。本当は、それが一番したいことかな。小説を書くこと。エッセイ、詩も書きたい。 今までも色々と書きたいと思っていたけど、仕事が忙しくて時間がないといって何にもしてこなかったから、この辺で時間を作って言い訳が出来ないようにして本当に自分に何が書けるか試してみたい。そう決めた」
恵子はそっと微笑んだ。
「凄いね。政人はいつも自分の夢を話すときは生き生きとしている。でも私のことは考えてくれてる?」
「勿論考えているよ。でも少し待って欲しい。一年、いや半年」
「政人のしたいようにすればいい。ただ私は待つことも付いて行くこともしないから」
その後恵子からの連絡はなかった。寂しさはあった。でもこれで良いとも思った。
「すごい数だね」
口を開けば、その言葉が出てくる。
二次会を企画した僕たちでさえ驚き、収拾がつかなくなっている。
「みんなが幸せになれるように」という、新婦の発案で行われた大カップリング・パーティー。面識のある男女全てに声をかけ、約二百名を集めた。
入場時に十二支か十二星座のイラストが書かれたカードを配布し、同じカードを持っている人を捜すというもの。
相手が一人ということはないので、グループを作ることにもなる。二人以上のグループで新郎新婦に関するクイズに答え、最後まで残れば豪華な賞品が出る。
順位によってコンドームからベビー用品まで、優勝者には当日限り有効のホテル宿泊券まで用意されている。
あくまでも披露宴の二次会であるが、そんな雰囲気はどこにもない。みんな、自分が楽しむことに熱中している。
たっぷりと用意しておいた時間は、直ぐに切れてしまった。
時間はたっぷりあった。
小説を書く時間はあった。しかし考えることが嫌だった。晴れた日にはドライブに出掛けた。
平城宮跡では舞台のようになったところに寝ころんで、ゆっくりと風に流される雲を見つめていた。
次々に形を変える雲を見て、子供の頃を思い出した。公園のジャングルジムの上に寝ころび同じことをしていた。ぽかぽかと陽に照らされて、時にはそのまま眠っていた。
大勢の中で遊ぶよりは一人で遊ぶときの方が楽しかった。砂場に街を作ったり、土管の中を探検したり、山の中に基地を作ったりした。
誰にも邪魔されず、自分の世界を創ることが出来た。
横から割り込んできてかき回す奴は大嫌いだった。みんなと一緒に遊びましょうと言う先生も嫌いだった。分かったような口振りで説教をする女子も嫌いだった。
全てが自分の思うように進まないと納得しなかった。
一人でいるときが一番落ち着けた。一人でいることの寂しさも知っているつもりだった。
奈良公園では鹿に煎餅をやり、東大寺では久しぶりに大仏を見た。小学校か中学校の遠足以来だと思う。その時は大きさだけに驚いて、それ以外のことは覚えていなかった。今ならゆっくりと鑑賞する事が出来る。 二月堂にも足を運んだ。テレビでは何度も見たことがあったが、来るのは初めてっだた。そういえば山焼きや大文字の送り火も見たことがなかった。奈良に住んでいながらでも、そういうものなのかと思った。
あちこちを歩いてみた。
古い町並みが残る橿原の今井町。雰囲気を味わいながら、カメラを構えた。建物だけでなく通りを歩く老人や猫、遊び回る子供たちを撮り続けた。
秋の吉野山も良かった。桜を見に春に来たことはあったが、紅葉は初めてだった。ロープウェイにも乗ってみた。子供の時以来だから、二十年ぶりくらいになるだろうか。
ゆったりとした時間の流れる中、大阪での仕事を辞めて良かったと思った。
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電子音が鳴り響いた。
目覚まし時計かと思い、右手を大きく伸ばして探りをいれたが、何にも当たらなかった。仕方なく身体を起こし時計を探した。崩れた雑誌の山の下から、黒いプラスチックの塊が少し頭を出していた。すぐに掘り起こしスイッチをオフにしたが、音は鳴り止まなかった。そこで漸く音の主が電話であることに気付き、慌てて受話器を取った。
「おはよう。まだ寝てたの?」
祥子の声だった。曖昧な返事をしていると
「今夜、空いてる?」
と、話を続けてきた。時間のことは聞かないでほしい。
「じゃあ、五時に神宮前で」
一方的に切れた受話器の向こうからは、悲しげな電子音が鳴り続けていた。僕はまだ夢の続きを見ているような気分だった。
祥子は高校の後輩であり、元恋人の直子の妹でもあった。直子とは高校を卒業すると同時に別れた。振られたと言った方が正しいだろう。理由は「高校を卒業するから」だそうだ。
祥子とは何人かのグループでの遊び友だちだった。祥子が卒業してからは飲み友だちにもなった。二人で飲みに行くこともしばしばあった。いつからか祥子は、二つ年上の僕を「先輩」ではなく「政人」と名前で呼ぶようになり、二人の間には異性間の友情が成立しているとも言うようになった。
最近になって、親友の郁雄と付き合うことを伝えられた。郁雄は真面目過ぎるくらいで、今までに恋愛の経験がなかった。それなりに遊んでいる祥子ととは、少し意外な組み合わせだった。
「今までとは違うタイプの人だから付き合ってみたいの」
と言っていた祥子だったが、三ヶ月もしないうちに別れ話をしていた。恋愛初体験の郁雄には納得できない話らしく、拗れていた。
「お待たせ」
十分遅れてきた祥子はそう言いながら助手席へと飛び込んで来た。十月ももう終わりだというのに気温は高く、小春日和というよりは夏に戻ったような日だった。古いながらもエアコン付きの車内は快適だった。パタパタとブラウスの胸元を揺らしながら、祥子は大きく溜息をついた。
「いつものとこ行こう」
僕は車を走らせた。
どちらかといえば方向音痴な僕だが、何十回と通う店までの道は、人に説明する事もできる程になっていた。その店は居酒屋ではあるが団体で行くようなところでは無く、おしゃれな内装でカップルばかりが集まるところである。僕たちはいつも何組ものカップルを観察しながらたわいもない話をしていた。
運ばれてきた生ビールで乾杯をした。残念な事に、二人以外にはまだ店に客は入っていなかった。祥子はおいしいと呟いた後、僕の目を見つめて口を開いた。
「彼女は?」
「欲しいね。誰か紹介してよ」
「何時も口ではそう言うんだけどね。本気でそう思ってないでしょ」
祥子は僕のことをよく知っている。口では紹介してなどと言ってはいるが、実際に紹介してもらったところで、デートに誘わなければ電話もしない、まして自分から話し掛けようとしないかも知れない。初対面は苦手である。人見知りが激しいのだ。あと、面倒くさいというのもある。
「まだ、お姉ちゃんのこと好きなの?」
「どうかな?」
「あんなのの何処がいいの?」
何処が良かったのだろう?
直子とは始めは友だちだった。同じクラスで、休み時間になると五、六人のグループで喋っていた。それが次第に二人だけで話をするようになり、二人で遊びに行くようになっていた。何度目かの遊びに行った日の帰り、まだ少し時間があるからと、直子の家の近くの公園で話をしていた。ふざけながらブランコに乗ったり、滑り台を駆け登ったりしている時に僕たちはキスをした。
その後何度もキスをした。誰もいない教室で、屋上で、百貨店のエレベーターの中で、舗道で。直子の柔らかな唇の感触を味わっていた。そして公園で、直子の胸を触った。左手で肩を抱き寄せながら、右手で胸を触った。胸元のボタンを外し、覗き込むように手を入れていった。ブラジャーに手は届いたものの外し方が解らず、強引にずらして触った。乳首は上を向いていた。
直子の家に招待されたとき、両親は旅行に出掛け妹は遊びに行っていた。家の中を案内された後、直子の部屋へ入った。ベッドとソファとテレビと机。小さな部屋だが可愛らしく綺麗にされていた。
ソファに並んで座り、直子が用意してくれたジュースを飲みながら話をしていたが、僕たちは直ぐにキスをした。直子の口に舌を押し込み、絡ませた。そのまま二人でソファに倒れ込み、僕は直子の首筋を吸った。服の上から胸を触り、ボタンを外していった。人の気配を気にしなくて良いので、いつもより大胆になっていた。服を脱がし、ブラジャーも丁寧に外すと、白い乳房が現れた。薄暗い公園でしか見たことがなかったので、綺麗な曲線に感動を憶えた。ゆっくりと両手に包み込み、キスもした。
直子は両目を閉じ、全てを僕に任せているようだった。僕は両手を胸から腰、そして脚へと添わせていった。ストッキングの上から脚に手を這わせ、爪先まで来ると今度は内側を這いあがった。その手でスカートをめくり上げ、ストッキング越しのパンティを見つめた。僕はそっと両足の間を撫でてみた。直子は、あっ、と声を漏らし身体をくねらせた。何度も撫でた。次第に指に力が入っていった。
直子は声を出さないようにと我慢しているようだったが、段々と息づかいが荒くなっていった。僕はストッキングとパンティを同時に引き下ろし、脱がした。そこは初めて見る世界で、異様に感じた。昔見た、従妹のそれとは違っていた。両足を押し広げ、濡れているところを覗き込んだ。「恥ずかしい」と掠れそうな声で、両手で顔を覆いながら直子は言った。僕は指でそこを何度も触り、液体が流れ出しているところに人差し指を入れてみた。直子は今までにない声を出した。僕は指で、直子の温もりと柔らかさと愛情を感じていた。急いでズボンを脱ぎ、堅くなった、そして濡れているペニスを直子に押し当てた。
結局この時は、直子の中に僕を入れることは出来なかった。位置が上手く掴めなかったのと、余りにも直子が痛がるために、それ以上のことは出来なかった。僕たちはずっと、裸のままで抱き合っていた。
「お姉ちゃんて、顔にすごく自信持ってたでしょう」
祥子は身体を乗り出して言った。
「そうだったかな」
「そうよ、『可愛い』って言われれば当然のように振る舞うし、頬が少し荒れたからといって病院に通うし、芸能人じゃないんだからね」
「へえ、そうだったの」
僕はいろいろと思い出そうとした。電車で隣りに座ったおじさんに可愛いと言われたとか、スカウトされたことがあるとか、楽しそうに喋っていた。僕は一つの話として聞いていたが、直子にとっては自慢だったのだろうか。確かに可愛いかもしれないが、特別というわけではない。それに、直子がそんな自信を持っていたとは気が付かなかった。
「お姉ちゃんとセックスしたの?」
僕は飲みかけのビールをこぼしかけた。
「ストレートに聞くね」
祥子は薄笑みを浮かべた。
「したの?」
「した」
「へえー、付き合ってたのは知ってたけど、政人とお姉ちゃんがね」
「何?」
「想像できない」
「しなくていい」
祥子は笑いながら、話に感心していた。今度は僕の方から聞いてみた。
「郁雄とは?」
「えっ?」
「したの?」
祥子は暫く黙っていた。
落としていた視線を僕に戻すと、首を左右に振って言った。
「郁雄って、何処か変わってるの」
祥子は、郁雄とのことを話し始めた。
「初めは、凄く真面目でどちらかというと堅物っていう感じの人だと思っていたの。でも、みんなと喋っているときに面白いことを言ってみんなを笑わせているのを見て、興味を持ったの。本当は楽しい人なんだろうなって。
「あるとき電話で、告白されたの。いきなりだったのでびっくりしたけど、真面目な人だなって思ってOKしたの。こんな人とも付き合ってみるのも良いかもと思って。
「付き合いだしてまだ一ヶ月になる前、両親とお姉ちゃんが親戚の家に泊まりに行ったとき、郁雄を家に呼んだの。テレビを見たり音楽を聴いたりするだけで、あまり喋らないし何もしようとしないの。だから私、言ったの。キスしないの?って。そしたら、ぎこちなく唇を重ねて来たんだけど、今度はなかなか離そうとはしないの。あまりにも長いので、私の方から押し退けちゃった」
祥子は大きく息を継いで、また話し始めた。
「その後も、郁雄の方からは何もしてこなっかたの。だから全部私がリードしてたの。キスをするのも、胸を触るのも。私の胸に郁雄の手を持ってきても、ただ当てているだけなの。揉もうとしないの。それで、私の方から郁雄の股間を触ってあげたの。そしたら、何か喜んじゃって。バカみたい。お金取ってやろうかと思ったわ」
祥子は暫く黙っていた。
「もう次からは、会うのが辛かった」
僕は大きく頷いていた。
「もっと上手くいっているんだと思ってた」
暫く沈黙が続いた。
賑やかなはずの店内も、その時だけは静かに思えた。
祥子を家まで送る途中、携帯が鳴った。高校の先輩からのようだった。
先輩の話は、郁雄のことだった。郁雄から電話があり、落ち込んだ声で『死ぬ』を連発しているらしい。僕は今、祥子と一緒に居ることを告げ、先輩はもう一度郁雄と話をして何とかしてみると約束をした。
祥子にそのことを話した。祥子は、驚きの声と失望の叫びを同時に発し、そして涙を流した。僕は、優しく祥子を抱き寄せた。
「本当に死ぬの? 私が悪いの?」
祥子は、何度も繰り返し繰り返し言っていた。僕は「大丈夫、誰も悪くない」と言って、祥子の口を塞ぐようにキスをした。
いつの間にか、車の窓は全て曇ってしまっていて、街灯の明かりがうっすらと抱き合った僕たちを照らしていた。
好きになるのに理由は要らないけど、嫌いになるのにはたった一つの理由で十分だと誰かが言っていたような気がした。
取り返しの付かないことをしでかさないかと不安になった。直ぐに拓也と貴志に連絡を取り作戦会議を開いた。
いつものことながら本人抜きでは話に収拾がつかず、結局は郁雄から話を聞くということになった。
土曜日、郁雄を無理遣り連れ出し四人で居酒屋へ向かった。
郁雄は黙ったままだった。三人で雰囲気を盛り上げようと、たわいもない話をしては大げさに相槌を打ったり笑ったりしていた。少しづつ酔わしながら郁雄の口が開くのを待った。
「皆は相手の気持ちを分かってやれというけれど、俺の気持ちはどうなるの? 俺の気持ちは相手に分かってもらえないの? それはおかしいよ。俺の気持ちはどうなるの?」
郁雄はそう言うとテーブルの上に突っ伏した。僕たちはお互いの恋愛経験を話した。何が良く何が悪いかとか、時間が解決するとか、それでも忘れられない女はいるとか。郁雄がその話を聞いていたかどうか分からないが、これも経験だと思った。一回の恋愛で全てを掴める人もいるが、何回も恋愛を経験してやっと掴む人もいる。郁雄には恋愛経験がまだ足りないのだ。
時計の針も十二時を回り、皆が車に乗り込んでいるとき、郁雄はまだ帰らないと管を巻いていた。
「どうする?」
誰となしに言葉が出ていた。
「時間はたっぷりある」
皆そう思っていた。
「海が見たい」
言ったのは郁雄だった。起きているのか寝ているのか分からない。寝言だったのかもしれない。でも僕たちはその言葉に乗っていた。
海には、僕たちの思い出があった。
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高校三年生の冬。ハレー彗星が地球に接近するという話を聞き、是非見に行こうと計画を立てた。吉野のどこかの山の上でも見えるのだが、より綺麗に見るために、そして少し冒険をしたいために、海まで行くと決めた。
目的地は三重県熊野市。西の和歌山市に出るよりは、南に位置する熊野市の方が星が見やすいと考えたからだ。それに吉野の山を抜ける方が、交通量も少なく安全だと思ったからでもある。
彗星が良く見える明け方に着くために、夜遅く出発することにした。普通なら三、四時間で着くのだが、かなり寒いため途中での休憩時間を多く取ることを考慮して、十時には出発することにした。
持ち物は、夜中に走ることと山間部を走ることを考え、食料と燃料は必要だった。それと万一の為に修理用具、遊ぶことも考えトランプとバトミントンセット、釣竿の準備もすることにした。
三月。季節は春を迎え、僕たちは卒業式を終え、短い休みを迎える。吉野にも遅い春が確実に近付いていた。しかし山はまだ寒かった。
夜、十時。集合場所の秋津荘はやけに静かだった。昼間なら大勢の温泉利用客で賑わうのだが、今日は宿泊客が少ないのか宴会客がいないのか、いつもより寂しく感じられた。遠くで点滅を繰り返す信号機だけが目立っていた。
十時二十分。貴志が来て四人そろった。時間通りに集まらないのはいつものことだった。一番早く来た僕でさえ、家を出たのが十時だった。二十分の遅れは十分な許容範囲だった。
気温はかなり低かった。吐く息は白く、駐車している車のフロントガラスには氷が張り付いていた。道路の凍結を注意して走る必要があった。
「そろそろ行こうか」
完全武装した僕たちは秋津荘を後にした。
国道三〇九号線を北上した。いつも見慣れている筈の下市の町並みも、何故か新鮮に思えた。
これから進む道の殆どは、初めて通るところである。その不安が初めからのしかかっていたようである。
千石橋南詰めを右に曲がり阿知賀へと抜け、吉野町へ入っていった。吉野川を左に見ながら走る。暫くはこの川の上流へと向かって走ることになる。一旦美吉野橋で吉野川を渡り、一六九号線を進んだ。
宮滝で休憩を取るつもりをしていたが、寒いのでトンネルまで行くことにした。
五社トンネルの中程にスクーターを止め、エンジンの熱で身体を暖めた。
「固形燃料も出したよな」
運転している貴志が言った。
後部座席には拓也が座り、その隣で郁雄が寝ていた。
「四人で小さな火を囲んでた」
予想以上に寒かった。感覚の薄れた指先をマフラーで暖め、身体を暖めるためにトンネル内を走り回っていた。疲れることよりも、寒さの方が不安だった。
出発前に母親に言われたことがあった。そのうち誰かが止めようと言い出すかと思っていたのに、変な所で意思が堅いのね。と。
四人とも進んで前に出ようとするタイプではなかった。一緒にいても誰かがリーダーになるということもない。みんなで考え、みんなで決めていた。
何々をしたいからいつどうするということよりも、今日暇だから何をしようということの方が多い。いつも突然話が決まる。そして四人が集まる。
「それに、トンネルに絵を描いたよな」
「靴で。皆片足で立って」
「残ってるかな」
「あれはもう少し先のトンネルと違ったかな」
「よし、行くぜ」
三人の話を余所に、郁雄は眠っているようだった。
トンネルを抜けるとそこは川上村。
左手に吉野川を見ながら走る。
山が高くなり、迫ってくる感じがする。空が小さくなり、気持ちも小さくなる。出口のない迷路に迷い込み、同じ所を何度も何度も繰り返し走っているのではないかと思えてくる。
木々の深さが、一段と山の中へ入ってきたという感じを与えてくれる。
次第に寒さと不安が大きくなってきた。なんとかなると思っていても、本当に海に着くことが出来るのだろうかと考えてしまう。それに距離のことも心配だった。
約百キロメートル。
郁雄がそう言っていた。
その半分の距離でさえ走ったことのない僕にとって、未知の世界の話だった。体力が持つのか、スクーターが持つのか、頭をよぎることは沢山あった。
みんなに付いて走るしかなかった。
吉野川は暗闇に沈んでいた。その周辺には重機がひっそりと佇んでいた。
またダムが出来るらしい。この上流にも大迫ダムがあるのだが、まだ造るらしい。幾つかの集落がダムに沈む。墓が沈む。神社も沈む。何故そんなことまでしなければいけないのか僕には分からなかった。
クラスの中で、誰々は引っ越す、誰々は助かったという話があった。その時は人ごとだと思っていたが、目にして考えてみると色々な思いが出てきた。
「ダムはムダ。冗談じゃなくて本当なんだ」と誰かが言っていた。誰だったのか思いだそうとしたが分からなかった。
「大迫ダムで休憩していこう」
休憩と言ってもトイレがあるだけで、暗くては景色も楽しめない。しかしそれで十分だった。アルコールに浸かっていた僕たちには、トイレは必要なアイテムだった。
車を止めると同時に三人は飛び出していた。我慢の限界だった。
深夜の山の中なのだから何処でしても同じなのだが、僕たちにもマナーはあった。と言うか、人に見られることよりも、他の動物に出くわすことの方が怖かった。
狐や狸ならまだ良いが、猪や冬眠前の熊を前にしては出るものも出なくなってしまっているだろう。
この時ばかりは郁雄も車を降りて伸びをしていた。まだ少し酔っているようだった。
暗闇の広がる谷間を見つめていた。
冷たい風が酔いを醒まし、足下で鳴いている虫たちの声が心を落ち着かせてくれた。
僕にとって忘れられない女性というのは直子かなと思っていた。その後に付き合った女性にしても恵子にしても、それほど思い入れはなかった。
郁雄を見ていると、そんなことを考えていた。
十年も前の話だから、良かったことだけを覚えているのかもしれなかった。
恋なんてそういうものだろうと思っていた。
「次の休憩は池原ダムかな」
「その前にトンネル」
暗闇を見つめ感慨に耽る郁雄を車に詰め込み出発した。
伯母峰トンネルでも休憩した。このトンネルは約二キロもあり、夜の暗闇から解放してくれた。オレンジ色の照明は身体を暖めてくれた。
僕たちは暫く座り込んでいた。
単調な運転は眠気を誘っていた。それに寒さは身体を堅くさせ、握力を失わせていた。
いったい何をしているのだろう。と思ってしまう。
いつもならベッドで暖かくして寝ている時間なのに、こんな夜中にこんなに寒いのに、山の中で何をしているのだ。何のために。余計なことを考えてしまったものだと、頭の中で言葉が繰り返し回されていた。
考えることによって言葉が淀み、気力も沈んでいった。全てが悪循環を促進させていた。
楽しまなければいけなかった。誰のせいでもないのだから、考えてもしかたなかった。前に進まなければ終わることもできない。
そんな中、誰かが駄洒落を言った。言った瞬間にその内容も、誰が言ったのかさえ分からなくなってしまうような、そんな言葉だった。暗号か呪文だったのかもしれない。誰も笑わなかったのだから。でも、それがきっかけとなった。
睡魔との戦いに決着を付けた僕たちは、テンションを一気に上げて上北山村に入った。
短いトンネルが幾つも続く中、不意に誰かがスクーターを止め茂みに入っていった。寒いのでトイレが近くなるようだ。皆はそれに倣った。
そのまま休憩することになり、近くのトンネルまでバイクを運んだ。
さっきとは打って変わって誰となく喋り、お菓子で腹を膨らませた。
靴でトンネルの壁を擦っていた。埃や土の汚れがとれていった。
「絵、描けるかな」
と言ったとたんに全員立ち上がり、思い思いの場所に位置に着いた。
初めは足を高く上げ倒れそうになりながら描いていたが、そのうち靴を手に持って片足で動きながら描いていた。
似顔絵やアニメのキャラクター、自分の名前まで大きく壁に刻んだ。
「残ってるかな」
車をゆっくりと走らせながら、トンネルの壁を見つめていた。
「このトンネルと違ったのかな」
汚れた壁を何度も見直していた。
埃の下に隠れてしまった思い出を少しでもいいから見つけたかった。大げさな言い方をすれば、僕たちの存在証明をしたかったのかもしれない。十年前に埋めたタイムカプセルを掘り返しているような気持ちだった。
壁の汚れは模様にも文字にも見えたが、僕たちの探しているものではなかった。存在が薄れかけていた。
「あった」
その叫び声とともに皆車を降りていた。
「微かに残ってるな」
良く見ないと見落としている所だった。
「拓也って書いてある」
「これドラえもんか」
いつの間にか郁雄も仲間に入り、口々に思い出を語っていた。
「分かるようにこの上からなぞっとこか」
「そして更に描き加える」
「よーし」
気持ちは十年前に戻っていた。
池原ダムでトイレ休憩を取った。
分厚い雲が空を覆っていた。寒さは一層増し、雪が降ってきてもおかしくないと思えた。海まで行って星が見えるのか心配にもなってきた。
湖面に広がる暗闇が不安となってのしかかってきていた。それは海までの道のりのことだけでなく、卒業後の将来というものに対しての道のりにもあった。
大学は決まっていた。クラスでも二、三番目の早い方だった。だからといって何をしたいというのはなかった。目的もないまま進学してもいいのだろうかという思いが強かった。
そんな僕に対して他の三人はしっかりしているように見えた。
貴志は専門学校が決まっていた。その後もコンピューター関係の仕事と決めているようだった。
拓也と郁雄は一年間予備校に通う。自分のやりたことが決まっているので妥協することをしなかった。
彼らにも不安はあるのだろうが、僕には分からなかった。
四人は暫く湖面を見つめていた。
「帰りはここで釣りやな」
大きな獲物を期待して、皆頷いた。
もうすぐ三重県熊野市に入る。
「眠い」
ドライバーの拓也が呟いた。
「替わろうか」
「いや、まだ大丈夫。あの時は元気やったのにな。歳取ると徹夜はきついかな」
「まだまだ若いよ」
「気持ちはあの時のまま」
「死ぬまで十八歳」
「何も変わらない」
変わりたくなかった。
道路が左右に別れていた。海へ行きたいだけなのだが、それがどっちか分からなかった。今頃になって誰も地図を持っていないことに気付いた。
すでに熊野市に入っているため道路標識に書いてある地名では何も分からなかった。こっちが海とでも書いてあるなら良かったのだが、何も見つけることはできなかった。
近くに交番を発見したが誰も居なかった。簡単な地図さえも無かった。
適当に走ってみようかと言いながら暫く立ち尽くしていた。
気が張っているうちはいいのだが、弱気になってくると寒さが一段と厳しくなってくる。考える気力がなくなり、今何をしようとしていたのかさえ分からなくなってくる。
じっとしていることは避けたかった。とりあえず動かなければと思った。
「南へ行こう」
空を見上げていた郁雄が言った。
「あれが北極星だから南は反対の方」
郁雄が指さす方を暫く見ていた。
瞬く沢山の星の中で僕たちは溜息を吐いた。
海の匂いがした。
「海だ」
窓を開け、車の中に冷たい空気を詰め込んでいた。
寒さは感じていなかった。子供のようにはしぃでいる僕たちには関係なかった。
海の匂いに包まれながら国道四二号を走っていた。大泊から鬼ヶ城を抜け、左手に広がる暗闇を見つめていた。
車を降り、波の音を聞いた。どことなく懐かしさが漂っていた。大きく深呼吸し、肺の中を湿った潮の香りでいっぱいにした。
僕たちはお互いの顔を見合わせて笑った。
「よしっ」と気合いを入れ直して、大声を出した。僕たちは海岸へと走り出た。
ハレー彗星らしきものは見えた。はっきりとした知識がなかったので、たぶんあれだろうと勝手に決めていた。そのハレー彗星はうっすらとぼやけ、尾を引いているようにも見えたが他のものにも見えた。長い距離を走ってきた割には、感動は小さかった。
僕たちは海岸に腰を下ろし、空が明るくなるのを待った。
山に住む僕たちにとって、海は遠いものだった。いつも憧れを持ち、遮るもののない景色を思い描いていた。
水平線から昇る太陽に、僕たちは両手を合わせていた。
「また来れるかな」
郁雄が海に向かって話していた。
「何度でも来れるよ」
僕たちはそう思っていた。
「卒業しても会えるよね。大人になっても会えるよね。結婚しても、子供が産まれても会えるよね」
「いつまでも一緒だよね」
何故か涙が溢れそうになった。
海を見ているだけで、いろんな思いが頭を過ぎっていった。
仕事を辞め、はっきりとした目的がないまま一日一日を過ごす自分。十年前にここに立ち海を見ていた自分。その時は何を夢見ていたのだろう。友だちに囲まれている自分。それだけで幸せを感じていた。
車の中で仮眠を取った。皆に徹夜するだけの気力も体力も無かった。
昼前に起き出し、近くにあった喫茶店で食事をした。
皆やけに明るかった。
この海で考え、そしてこの海に全てを流し、この海に大きく包まれていた。
皆が新しいものに向かおうとしているようだった。
もう一度ゆっくりと海を眺め、早めに帰路に着くことにした。
池原ダムまで戻り遅い朝食を取ることにした。家から持ち寄った肉を固形燃料を元にして網焼きし、キャベツやレタスをサラダ代わりに、冷えたご飯で腹を膨らませた。
食後の運動として釣りをしたが全然掛からなかった。魚が居ない訳ではなかった。時折黒い背中を見せては、ピチャンと跳ねた。
太陽は眩しかったが眠かった。昨日から一睡もしていないのだからそういうものなのだろう。
快適に走れば走るほど眠気が増し、景色がぼやけて見えた。信号で止まったとき、足がもつれて貴志が転け、それにつられて皆が転けた。
誰も話をしなかった。
眠ってるわけでもなかった。
帰り道の車の中では、ラジオから流行りの曲が流れているだけだった。
今までの十年とこれからの十年を考えていた。
十年前、今のことを想像できなかった。
同じ道を四人で走ること。仕事に就くこと、辞めること。結婚すること。
十年後、どうなっているかは分からない。
仕事のこと。結婚のこと、家族のこと。また四人で同じ道を走ること。
郁雄はラジオに合わせて歌を口ずさんでいた。
四月。
それぞれの春は始まっていた。
おわり
2008年12月14日日曜日
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