1997年。
この年は、6年間勤めた会社を辞め、
返還前の香港を彷徨い、
マザー・テレサの葬儀中継をインドで見た。
そして、ことばを書き続けた。
高校の後輩が自動車事故で亡くなり、
奈良県でも残忍な事件があった、年でもある。
自分の、そして友人の恋愛観について
考えを巡らせた、そんな年でもあった。
そして、ことばを書き続けた。
今もことばを書いているのだが、
何も変わってないように思う。
何も進歩してないように思う。
まだ、方向が定まっていない。
1997年。
少しだけ軌道修正した年。
29歳になった年。
その1年間に書いたものの中から、いくつかを選びだし、
作品集にした。
1997年12月
「1997 Collection」 B6判 94頁 5部
を 配付する。
「帰り道」は『私の好きな「まちのみち」エッセイコンテスト」の入選作品です。
「海まで100km」はこのあと何度も書き直しをしてるため、この作品群からは外しました。
2001年8月
辻本真孝
2008年12月14日日曜日
駐在所日記
六月十日火曜日
今日は朝から雨が降っていた。梅雨入りにはまだ早いと思ったが、雨は気にしていないようだった。
小学生の傘の列を見送ったあとは、昼までの間、特に人を見ることもなかった。普段でも静かな村だけに、こんなときは寂しいと感じてしまう。
タバコ屋の山本さんが来たのは三時頃だった。川が溢れそうになっているということだった。 水量は普段の何倍にも増え、河原はなくなり、道路の一番低いところでは水面から一メートルもなかった。
消防署には連絡を取ったものの、他にも同じようなことがあって直ぐには来られそうになかった。地元の消防団の人たちが中心となって、危険な箇所へ土のうを積む作業をした。
消防団の団員というのは、二十から四十歳代を中心に三十名ほどいるらしいのだが、殆どの人が村の外へ働きに出ている。 普段村にいる消防団員は十名もいないらしい。力になるのは定年退職を迎え家で農作業をしている人たちと、主婦の方々である。田舎では、年寄りと女性の力が重要だ。
夕方、岡村健太君がいつもの報告に来た。彼は小学校の三年生で、毎日学校からの帰り道にここに寄って一日の報告をしてくれる。将来は警察官になるらしい。
「今日は一日中雨が降って、川の水が汚れていました」
川は水が増えて危ないので近付かないようにと言うと
「分かりました」
と言って敬礼をして帰っていった。
夜になっても雨は一度も止む気配を見せなかった。
六月十三日金曜日
昼頃、隣の吉田さんの奥さんがカレーを持ってきてくれた。一人暮らしは大変だろうと、週に一度は食事を作ってくれる。 申し訳ないと言うと、ついでだから構わないと言ってくれ、時には買い物までしてくれる。
この村の場合、野菜や魚は週に三度車で販売に来る。車が来る度に、何か買ってきましょうかと声をかけてくれる。十数分も車で走れば隣の町のスーパーで買い物も出来るのだが、つい頼ってしまう。
一人で居るよりも、誰かとコミュニケーションをとる方が楽しいのは確かだから。
夕方、健太君が報告を済ませて帰ったあと、辻田の奥さんが駐在所の前を単車に乗って走っていった。丁度表に出ていたので、こんにちはとお互いに挨拶を交わした。
この人とはあまり顔を合わせたくない。ふつうの状況ならいいんだろうけれども。
家が山の上にあって少し遠いため、三人の子供を小学校へ迎えに行く。足下に一番小さい子を乗せ、あとの二人を荷台にまたがせる。その辺の暴走族なんて目じゃない。
本当は注意しなければいけないのだろうが、「こんにちは」と挨拶をされれば「こんにちは」と返すしかない。この村では、平和であればルールなんて関係ない。各自がきちんと責任を持っている。
夜、高校生の隆史君が買ってもらったばかりのバイクを乗り回していた。あまりにも遅い時間だったので、遅い時間には乗らないように、せめて駐在所の周りでは静かにすることと注意した。
素直に「はい」と言ってくれた。
六月二十日金曜日
夕方、健太君は友だちの祐介君とまいちゃんと一緒に現れた。落とし物を拾ったので届けに来たということだった。何かと尋ねると、表から段ボール箱を持ってきて見せてくれた。
中にはタオルにくるまれた小さな猫が入っていた。これは落とし物ではなくて捨てられたんだと言うと、迷子でもないのかと言ってきた。 それも違うと言ったのだが話を聞いていなかったようで、三人で迷子の子猫ちゃんを歌いだした。
ここではどうすることもできないと言うと三人は黙り込んでしまった。誰かの家で猫を飼うことは出来ないのかと聞いたら、三人ともいろいろと考えたあげく家に帰って聞いてくるということになった。
僕自身、ずっと猫よりも犬の方が好きだと思っていたのだが、犬よりも猫に好かれているようだった。この前も公園のベンチに座っていると、猫が近寄ってきてベンチに飛び乗ったかと思うと、 そのまま歩いてきて何気ない顔で僕の膝の上に座った。飼い猫が逃げ出したのか捨てられたのかは知らないが、そういう猫なのだろう。膝の上で気持ちよさそうに寝ていた。僕も気持ちよく寝てしっまた。
目を覚ましたとき、もう猫はいなかった。
暫くして健太君たちがやってきた。三人の家では飼うことが出来なかったらしいのだが、近くに住むまいちゃんのおばあちゃんが飼ってくれることになったらしい。三人はうれしそうに段ボール箱を抱えて帰っていった。
自分で飼ってもいいかなと少し考えていただけに、何だか残念な気分だった。
夜、バイクの音が近付いてきたなと思ったが、直ぐに聞こえなくなった。暫くするとエンジンを掛ける音が聞こえ、遠ざかって行った。 どうやら隆史君のようだった。約束を守って、駐在所の前だけはエンジンを切って通ってくれたようだった。
六月二十二日日曜日
今日は正福寺で葬式があった。
亡くなられたのは滝川のおばあちゃん。九十二歳。寿命だったのだろう。
旦那さんは十年ほど前に亡くなっているらしい。それ以来、一人暮らし。田舎でも老人の一人暮らしの問題はある。
子供は五人、孫十二人、曾孫二十五人。全員が村を出て暮らしている。さすがに当日には全員がそろった。
しかし村の人たちの方が凄かった。おばあちゃんが亡くなったその日から、お通夜、葬式まで人が絶えることがなかった。
僕を含めて近所の人たちは、農協の人と一緒に祭壇を作ったり、葬式の案内、親族の方へのお世話といろいろとやることがあった。
これが本当の葬式なんだと思った。祭りも同じだと思う。近所の人が集まって、村の人が集まって、自分たちの手で作っていく。これこそが大事なんだと思った。
親族の方が棺に花を入れ、蓋に釘を打ちつけ始めると、なぜか僕の涙も溢れそうになった。
六月二十八日土曜日
午後から健太君のお母さんがやってきて、「この人、どう思う?」と言って一枚の写真を渡された。
お世話になった人の娘さんで、音大でバイオリンを学んで、今はバイオリン教室で子供に教え、市民楽団にも参加しているということだ。
要するに、見合いをすすめにきたということだ。
綺麗な人だった。写真は演奏会の時にでも撮ったようなものだった。青いドレスを着て花束を持ち、微笑んでいた。
恋人は欲しいと思っているが、見合いとなると結婚が前提となるので、難しいと思った。
「しっかり考えといてね」と言って、健太君のお母さんは帰っていった。
結婚はまだ考えられない。
夕方、久しぶりに学生時代の友人の達哉から電話があった。女性を二人用意しているので、今晩飲みに行かないかということだった。
続くときは続くものである。
指定されていた居酒屋へ行くと、三人は先に来ていた。派手な二人だった。化粧も濃く、向かい側に座ると香水の匂いが鼻についた。
大学を卒業したばかりのOLで、コンパで達哉と知り合ったのだそうだ。女の子たちは喋り続け、僕は聞き役だった。
好きな女性のタイプというのが、自分でもはっきりと分からない。
高校を卒業してから電車などで会う女の子たちは、下手な化粧で素の顔が分からない子が多かった。化粧をしない方がいいのにと、いつも心の中で思っていた。
そんな中で百貨店で働いていると言った女の子は、化粧をしていなかった。
「化粧をしなくていいの?」と尋ねると、
「本当はしなければいけないんだけど、何だか苦手で、匂いもあまり好きじゃないし」と言っていた。
「花や草の匂いの方が好きかな」と言う彼女に、こんな子ならいいなと思った。しかし、もう彼氏はいるようだった。
大人の恋もいいけれど、心で感じる恋をまたしたいと思った。
居酒屋のあとはカラオケに行った。女の子たちは歌い続け、僕は聞き役だった。
七月七日月曜日
健太君たちは笹を持って現れた。笹は色紙で作った星や船が吊され、短冊には願い事が書かれていた。
<成績が良くなりますように>
<背が伸びますように>
<早く結婚できますように>
「何これ、早く結婚したいの?」と訊くとお巡りさんの分と言って、笹をくれた。とりあえずは喜んでおいた。
健太君は真面目な口調で訊いてきた。
「何でお見合しないの?」
お母さんから話が伝わっているらしい。
「誰か好きな人いるの?」
いや、べつに…
「もしかして、ホモ?」
何でやねん。
祐介君やまいちゃんまで訊いてくる。ほっといて欲しいのだが、彼らは真剣だ。
「細川先生、どうかな?」
「細川先生いいねえ、可愛いし」
「どう思う?」と、訊かれても見たことないし。
「大丈夫、大丈夫。じゃあいつにする?」
何を?
「デート」
先生の都合もあるでしょう。
「大丈夫、大丈夫」
彼氏がいるかもしれないし。
「それはないなあ。休みの日は一人で買い物って言ってたし」
「じゃあ決まり。明日先生に言うとく」
「お母さんにも言うとこ」と健太君。
「私も」
あの…。
期待と不安を一杯に、話は進んでいく。
七月十二日土曜日
昨晩から歯が痛く、我慢が出来なくなってきたので、歯医者へ行くことにした。村には歯医者がないので、隣の町へ行くことになる。
幾つになっても、歯医者の雰囲気には慣れない。待合い室にいるだけで、緊張してしまう。名前を呼ばれると心拍数が上がる。
椅子に寝かされ口を開けると、度胸を決めなければいけない。
虫歯は五本あった。左上の奥歯は治療出来ないので抜きますと言われ、「えっ」と思っている間に麻酔を打たれ、「あっ」と言う間に一本抜かれた。大したことはなかった。
あとの歯は詰めることになるらしいが、それは次回ということだった。
痛くなくても虫歯にはなっているんだなと実感した。帰り際、「しっかりと歯を磨いてくださいね」と言われた。今までは、朝一度だけの歯磨きしかしていなかったが、これからは食後三回、きちんと歯磨きをしようと思う。
三日坊主にならないように、自分のためだから。
七月二十二日火曜日
「お巡りさん、事件です」
と言って入ってきたのは、ホームズ探偵団たち。
小学校の図書室で読んだ「シャーロック・ホームズの冒険」が面白かったという健太君と、「金田一少年」が好きなまいちゃんと祐介君。
三人で夏休みの間、探偵団を結成して事件を解決するらしい。名前はもちろん健太君が付けた。
健太君が差し出した紙には「ニンジン、サンマ、キュウリ、パセリ」と書かれてあった。
「これは?」と聞くと、健太君はすかさず、
「暗号です」と答えた。
僕には意味が分からなかった。
「タバコやの近くで拾ったんですが、怪しいんです」
と言うものの、そこはいつも販売に来る車が止まるところ。買い物をメモした紙が落ちていても不思議ではない。
「買い物するためのメモだったら、順番がおかしいわ」
とまいちゃん。サンマが二番目に書かれていることが納得いかないらしい。野菜と魚、普通なら分けて書くということである。
「なるほど」と感心してしまうが、これに何の意味があるのか分からない。
「だから暗号なんです」と健太君。
「別の意味があるんです」
みんな力が入っている。話し方までいつもと違う。
「どんな意味があると言うんだい」と聞くと、
「うーん」とみんな唸ってしまう。
「何か意味があるはずです。僕には分からないけど英語とか、数字とか」
「数字だ」と祐介君。
「何が?」と理解できない。
祐介君が説明するには、ニンジンは二、サンマは三、キュウリは九、パセリは八。二三九八の数字だと言う。
「何の?」
またみんなで考える。
「金庫とか、どっかのロッカーとか」
「電話番号」叫んだのは健太君。
なるほどと思いながらこの村でこの電話番号を探すと、ある。正福寺の電話番号だ。
「これがどういうことなんだろう?」
みんな考えるが、答えは見つからない。
とりあえずメモは僕が預かることにした。
ホームズ探偵団の推理は途中で終わってしまったが、こんなことが夏休み中続くのかと思うと先が思いやられる。
八月一日金曜日
「お巡りさん、事件です」
と言って入ってきたのは健太君。
健太君が持ってきた紙には
「年をとるほど若くなるものは?」
と書かれていた。
「これはなぞなぞじゃないのかい?」と言うと
「そうとも言います」と健太君。
「解決してくださいね、お巡りさん」と言って出ていった。
暫く紙を眺めていたが、全く分からない。あとで考えることにする。
夜、なぞなぞのことを思い出し考えてみるが何も浮かばない。
諦めて寝ようと思っても、気になって眠れない。たいした答えではないのだろうと思えば思うほど眠れない。
いろいろと本を取り出してみるが、なぞなぞが載った本などない。
夜遅くに電話も出来ない。
子供の頃に聞いたなぞなぞを思いだそうとするが、殆ど思い出せない。
今夜は眠れそうにない。
※答えはアルバムの写真だそうだ。
八月十五日金曜日
正午のサイレンが鳴ったとき、高島のおばあちゃんは仏壇の前で両手を合わせていた。
おばあちゃんは十八歳の時、一度も会ったことのない人の所へ嫁いできた。旦那さんは建築現場の主任で、大阪で工場や映画館を建てたことのある人だ。しかし家では、旦那さんの両親と一緒に田や畑の作業をさせられていた。 今までに土をいじることなんてしたことがなかったので、毎日辛くて泣いていたという。
結婚して直ぐに、旦那さんは朝鮮へいった。
戦争のためだ。そのあいだに長女が産まれ、一時帰国し再び朝鮮へ行ったときに長男が産まれた。帰国してゆっくりと過ごすまもなく、今度はニューギニア島へ行った。そのときに産まれた次女の顔を見ることはなかった。
終戦を迎えると、いつ帰ってくるのだろうと心待ちにしていた。どこどこのだれだれが帰ってきたという話を聞くと、家の人はいつ帰るのだろうと楽しみだった。
そしてある日、白い箱が届けられた。箱を開けると、中には小さな石が入っていた。それが、旦那さんだった。そのときおばあちゃんは泣き崩れたとという。
おばあちゃんは涙を流しながら話してくれた。僕も涙を流しながら聞いていた。
一人暮らしの老人たちと会うときは、僕は孫になって話を聞く。
八月十六日土曜日
盆と正月には、この村の人口は増える。都会へ出ている者たちが、一度に帰ってくるからだ。
そして思い出話をみんなで楽しむために、小学校のグラウンドで盆踊りが行われる。
朝早くから青年団が中心となって櫓が組立てられる。提灯が飾られ形が出来たあとは、綿菓子や金魚すくいなどの露店が並ぶ。全て村の人の手で準備される。
夕方六時頃、音楽が流れ始め太鼓が叩かれる。それを合図に、人々は集まってくる。
男たちは酒を飲み、久しぶりの再会に話を弾ませる。子供たちは、この日ばかりはと夜遅くまで遊び続ける決心をする。
女性を中心に出来ていた踊りの輪は、男や子供も混ざって次第に大きな輪へと膨らみ、いつの間にか二重三重の輪へと形を変えていく。
みんなが時間を忘れて踊り続ける。いつまでも音楽が流れ続ける。
そんな夏の日の夜。故郷を思い出す。
八月三十一日日曜日
夏休みも、もう終わりである。
最後だからと言って、健太君たちに誘われて川で泳ぐことになった。
細く小さな川だが、大人でも泳げるくらいの深さはあった。小さな滝もあり、健太君たちは大きな岩の上からその滝つぼへと飛び込んでいた。
僕も挑戦することにした。一度目は子供たちに笑われながら不格好な飛びかたをしたが、二度目以降は完璧な飛び込みだった。
飛び込みに飽きてくると、今度は魚を捕まえ始めた。
手掴みだ。岩の間や水草の間に手を入れてまさぐり、魚を捕まえる。
僕は魚に触れるのが精一杯で、捕まえることまでは出来なかった。
暫くすると、まいちゃんが来た。
親戚のお姉さんだと言って紹介してくれたのは、大学生のあゆみさん。
まいちゃんは健太君たちと遊び始めたので、僕が相手をすることになった。
まいちゃんの話が中心だったが、お互いの学校や仕事のことの話しもした。
その様子をニヤニヤしながら見ていたのはホームズ探偵団。罠にはまってしまったかなと思いながら、楽しい時間を過ごさせてもらった。
九月五日金曜日
狼が出たという話が、村中に広がっていた。
山仕事に行っていた村田さんが、夕方山を下りようとしていたときに見たという。
犬とは違うことは確からしかった。
怖いとは感じなかったと言っていたが、目と目が合ったとき暫くは動けなかったという。
狼の方から目をそらし、山の中へ消えていった。
日本狼は絶滅したと言われているが、広い山の中には何かが居るはずだと、村に住み始めてから思うようになっていた。
もし本当に狼だったとしたら、そっとしておいてやりたい。
九月十五日月曜日
今朝、インドへ旅行をしていた先輩が帰ってきた。早速みやげ話を聞くために、飲みに行くことにした。
先輩は三十歳を目前にして会社を辞め、旅に出た。六月から七月にかけて香港、中国、澳門を周り、八月には広島、長崎、沖縄をまわった。
僕には、彼が何をしたかったのかよく分からなかった。しかし彼は、自分の行動に満足していたようだった。
インドは貧富の差が激しい。これはいまだに身分制度が残っているからだという。高級車に乗り携帯電話を持ち歩いている人から、路上で生活をしている人まで、全てがインドである。
インドが他の国と違うところは、貧しい者がどんなに頑張っても豊かになることが出来ないということだ。アメリカンドリームやアジアンドリームというものがない。
貧しい者には働く場所さへ与えられない。だから物乞いをするしかない。子供も年寄りも。「お金をちょうだい。食べ物をちょうだい」と観光客に群がる。
五十年前の日本もこんな感じだったのだろう。インド人のガイドに言われて、そうかも知れないと思ったという。
インドには、ガンジーもマザーも生き続けている。それだけが救いだと友人は語っていた。
「アジアは素晴らしい」
これが先輩の言葉である。
九月二十日土曜日
事件とは、突然やってくるものである。
昨夜遅くに電話が鳴った。誘拐事件である。
誘拐されたのは十九歳の女子大学生。
帰りが遅いので心配していた両親の所へ、男の声で電話がかかってきた。荒っぽいしゃべり方で一千万円を要求してきた。 電話の内容や言葉遣いから、地元の人間の犯行であるだろうと考えられ、捜査が進められた。
捜査は本署の人間で行われ、僕はいつもの公務に戻った。
村始まって以来の事件である。
小さな村だから話は直ぐに広がり、色々な噂が飛び交った。
真実を確かめようと人々は集まったが、僕にも何も分からなかった。
捜査の進展が気になったが夜まで情報は入ってこなかった。
今日一日、何もなかったようである。
九月二十一日日曜日
事件とは、突然終わるものでもある。
朝早く電話が鳴った。
不振な男がうろうろしているということである。
眠い目をこすりながらパジャマの上から制服を着て出掛けた。
言われたところに男は居り、何をしているのかと聞くと「誘拐をしました」と答えた。
女性はすでに解放されており、自首するかどうか迷っていたところらしかった。
念のため手錠をかけて本署まで連行しようと思ったが、手錠を忘れてしまったようだった。本署に応援を頼み、手錠を借りて男に掛けた。 産まれて始めてのことだったので、手が震えていた。
事件は解決したが、僕ののんびりさが問題となった。
十月一日水曜日
今日、辞令が下りた。
今度からは、そうのんびりとは出来そうにもない。警察官らしくなれるだろう。人間らしくはなれないかもしれないけれど。
今日は朝から雨が降っていた。梅雨入りにはまだ早いと思ったが、雨は気にしていないようだった。
小学生の傘の列を見送ったあとは、昼までの間、特に人を見ることもなかった。普段でも静かな村だけに、こんなときは寂しいと感じてしまう。
タバコ屋の山本さんが来たのは三時頃だった。川が溢れそうになっているということだった。 水量は普段の何倍にも増え、河原はなくなり、道路の一番低いところでは水面から一メートルもなかった。
消防署には連絡を取ったものの、他にも同じようなことがあって直ぐには来られそうになかった。地元の消防団の人たちが中心となって、危険な箇所へ土のうを積む作業をした。
消防団の団員というのは、二十から四十歳代を中心に三十名ほどいるらしいのだが、殆どの人が村の外へ働きに出ている。 普段村にいる消防団員は十名もいないらしい。力になるのは定年退職を迎え家で農作業をしている人たちと、主婦の方々である。田舎では、年寄りと女性の力が重要だ。
夕方、岡村健太君がいつもの報告に来た。彼は小学校の三年生で、毎日学校からの帰り道にここに寄って一日の報告をしてくれる。将来は警察官になるらしい。
「今日は一日中雨が降って、川の水が汚れていました」
川は水が増えて危ないので近付かないようにと言うと
「分かりました」
と言って敬礼をして帰っていった。
夜になっても雨は一度も止む気配を見せなかった。
六月十三日金曜日
昼頃、隣の吉田さんの奥さんがカレーを持ってきてくれた。一人暮らしは大変だろうと、週に一度は食事を作ってくれる。 申し訳ないと言うと、ついでだから構わないと言ってくれ、時には買い物までしてくれる。
この村の場合、野菜や魚は週に三度車で販売に来る。車が来る度に、何か買ってきましょうかと声をかけてくれる。十数分も車で走れば隣の町のスーパーで買い物も出来るのだが、つい頼ってしまう。
一人で居るよりも、誰かとコミュニケーションをとる方が楽しいのは確かだから。
夕方、健太君が報告を済ませて帰ったあと、辻田の奥さんが駐在所の前を単車に乗って走っていった。丁度表に出ていたので、こんにちはとお互いに挨拶を交わした。
この人とはあまり顔を合わせたくない。ふつうの状況ならいいんだろうけれども。
家が山の上にあって少し遠いため、三人の子供を小学校へ迎えに行く。足下に一番小さい子を乗せ、あとの二人を荷台にまたがせる。その辺の暴走族なんて目じゃない。
本当は注意しなければいけないのだろうが、「こんにちは」と挨拶をされれば「こんにちは」と返すしかない。この村では、平和であればルールなんて関係ない。各自がきちんと責任を持っている。
夜、高校生の隆史君が買ってもらったばかりのバイクを乗り回していた。あまりにも遅い時間だったので、遅い時間には乗らないように、せめて駐在所の周りでは静かにすることと注意した。
素直に「はい」と言ってくれた。
六月二十日金曜日
夕方、健太君は友だちの祐介君とまいちゃんと一緒に現れた。落とし物を拾ったので届けに来たということだった。何かと尋ねると、表から段ボール箱を持ってきて見せてくれた。
中にはタオルにくるまれた小さな猫が入っていた。これは落とし物ではなくて捨てられたんだと言うと、迷子でもないのかと言ってきた。 それも違うと言ったのだが話を聞いていなかったようで、三人で迷子の子猫ちゃんを歌いだした。
ここではどうすることもできないと言うと三人は黙り込んでしまった。誰かの家で猫を飼うことは出来ないのかと聞いたら、三人ともいろいろと考えたあげく家に帰って聞いてくるということになった。
僕自身、ずっと猫よりも犬の方が好きだと思っていたのだが、犬よりも猫に好かれているようだった。この前も公園のベンチに座っていると、猫が近寄ってきてベンチに飛び乗ったかと思うと、 そのまま歩いてきて何気ない顔で僕の膝の上に座った。飼い猫が逃げ出したのか捨てられたのかは知らないが、そういう猫なのだろう。膝の上で気持ちよさそうに寝ていた。僕も気持ちよく寝てしっまた。
目を覚ましたとき、もう猫はいなかった。
暫くして健太君たちがやってきた。三人の家では飼うことが出来なかったらしいのだが、近くに住むまいちゃんのおばあちゃんが飼ってくれることになったらしい。三人はうれしそうに段ボール箱を抱えて帰っていった。
自分で飼ってもいいかなと少し考えていただけに、何だか残念な気分だった。
夜、バイクの音が近付いてきたなと思ったが、直ぐに聞こえなくなった。暫くするとエンジンを掛ける音が聞こえ、遠ざかって行った。 どうやら隆史君のようだった。約束を守って、駐在所の前だけはエンジンを切って通ってくれたようだった。
六月二十二日日曜日
今日は正福寺で葬式があった。
亡くなられたのは滝川のおばあちゃん。九十二歳。寿命だったのだろう。
旦那さんは十年ほど前に亡くなっているらしい。それ以来、一人暮らし。田舎でも老人の一人暮らしの問題はある。
子供は五人、孫十二人、曾孫二十五人。全員が村を出て暮らしている。さすがに当日には全員がそろった。
しかし村の人たちの方が凄かった。おばあちゃんが亡くなったその日から、お通夜、葬式まで人が絶えることがなかった。
僕を含めて近所の人たちは、農協の人と一緒に祭壇を作ったり、葬式の案内、親族の方へのお世話といろいろとやることがあった。
これが本当の葬式なんだと思った。祭りも同じだと思う。近所の人が集まって、村の人が集まって、自分たちの手で作っていく。これこそが大事なんだと思った。
親族の方が棺に花を入れ、蓋に釘を打ちつけ始めると、なぜか僕の涙も溢れそうになった。
六月二十八日土曜日
午後から健太君のお母さんがやってきて、「この人、どう思う?」と言って一枚の写真を渡された。
お世話になった人の娘さんで、音大でバイオリンを学んで、今はバイオリン教室で子供に教え、市民楽団にも参加しているということだ。
要するに、見合いをすすめにきたということだ。
綺麗な人だった。写真は演奏会の時にでも撮ったようなものだった。青いドレスを着て花束を持ち、微笑んでいた。
恋人は欲しいと思っているが、見合いとなると結婚が前提となるので、難しいと思った。
「しっかり考えといてね」と言って、健太君のお母さんは帰っていった。
結婚はまだ考えられない。
夕方、久しぶりに学生時代の友人の達哉から電話があった。女性を二人用意しているので、今晩飲みに行かないかということだった。
続くときは続くものである。
指定されていた居酒屋へ行くと、三人は先に来ていた。派手な二人だった。化粧も濃く、向かい側に座ると香水の匂いが鼻についた。
大学を卒業したばかりのOLで、コンパで達哉と知り合ったのだそうだ。女の子たちは喋り続け、僕は聞き役だった。
好きな女性のタイプというのが、自分でもはっきりと分からない。
高校を卒業してから電車などで会う女の子たちは、下手な化粧で素の顔が分からない子が多かった。化粧をしない方がいいのにと、いつも心の中で思っていた。
そんな中で百貨店で働いていると言った女の子は、化粧をしていなかった。
「化粧をしなくていいの?」と尋ねると、
「本当はしなければいけないんだけど、何だか苦手で、匂いもあまり好きじゃないし」と言っていた。
「花や草の匂いの方が好きかな」と言う彼女に、こんな子ならいいなと思った。しかし、もう彼氏はいるようだった。
大人の恋もいいけれど、心で感じる恋をまたしたいと思った。
居酒屋のあとはカラオケに行った。女の子たちは歌い続け、僕は聞き役だった。
七月七日月曜日
健太君たちは笹を持って現れた。笹は色紙で作った星や船が吊され、短冊には願い事が書かれていた。
<成績が良くなりますように>
<背が伸びますように>
<早く結婚できますように>
「何これ、早く結婚したいの?」と訊くとお巡りさんの分と言って、笹をくれた。とりあえずは喜んでおいた。
健太君は真面目な口調で訊いてきた。
「何でお見合しないの?」
お母さんから話が伝わっているらしい。
「誰か好きな人いるの?」
いや、べつに…
「もしかして、ホモ?」
何でやねん。
祐介君やまいちゃんまで訊いてくる。ほっといて欲しいのだが、彼らは真剣だ。
「細川先生、どうかな?」
「細川先生いいねえ、可愛いし」
「どう思う?」と、訊かれても見たことないし。
「大丈夫、大丈夫。じゃあいつにする?」
何を?
「デート」
先生の都合もあるでしょう。
「大丈夫、大丈夫」
彼氏がいるかもしれないし。
「それはないなあ。休みの日は一人で買い物って言ってたし」
「じゃあ決まり。明日先生に言うとく」
「お母さんにも言うとこ」と健太君。
「私も」
あの…。
期待と不安を一杯に、話は進んでいく。
七月十二日土曜日
昨晩から歯が痛く、我慢が出来なくなってきたので、歯医者へ行くことにした。村には歯医者がないので、隣の町へ行くことになる。
幾つになっても、歯医者の雰囲気には慣れない。待合い室にいるだけで、緊張してしまう。名前を呼ばれると心拍数が上がる。
椅子に寝かされ口を開けると、度胸を決めなければいけない。
虫歯は五本あった。左上の奥歯は治療出来ないので抜きますと言われ、「えっ」と思っている間に麻酔を打たれ、「あっ」と言う間に一本抜かれた。大したことはなかった。
あとの歯は詰めることになるらしいが、それは次回ということだった。
痛くなくても虫歯にはなっているんだなと実感した。帰り際、「しっかりと歯を磨いてくださいね」と言われた。今までは、朝一度だけの歯磨きしかしていなかったが、これからは食後三回、きちんと歯磨きをしようと思う。
三日坊主にならないように、自分のためだから。
七月二十二日火曜日
「お巡りさん、事件です」
と言って入ってきたのは、ホームズ探偵団たち。
小学校の図書室で読んだ「シャーロック・ホームズの冒険」が面白かったという健太君と、「金田一少年」が好きなまいちゃんと祐介君。
三人で夏休みの間、探偵団を結成して事件を解決するらしい。名前はもちろん健太君が付けた。
健太君が差し出した紙には「ニンジン、サンマ、キュウリ、パセリ」と書かれてあった。
「これは?」と聞くと、健太君はすかさず、
「暗号です」と答えた。
僕には意味が分からなかった。
「タバコやの近くで拾ったんですが、怪しいんです」
と言うものの、そこはいつも販売に来る車が止まるところ。買い物をメモした紙が落ちていても不思議ではない。
「買い物するためのメモだったら、順番がおかしいわ」
とまいちゃん。サンマが二番目に書かれていることが納得いかないらしい。野菜と魚、普通なら分けて書くということである。
「なるほど」と感心してしまうが、これに何の意味があるのか分からない。
「だから暗号なんです」と健太君。
「別の意味があるんです」
みんな力が入っている。話し方までいつもと違う。
「どんな意味があると言うんだい」と聞くと、
「うーん」とみんな唸ってしまう。
「何か意味があるはずです。僕には分からないけど英語とか、数字とか」
「数字だ」と祐介君。
「何が?」と理解できない。
祐介君が説明するには、ニンジンは二、サンマは三、キュウリは九、パセリは八。二三九八の数字だと言う。
「何の?」
またみんなで考える。
「金庫とか、どっかのロッカーとか」
「電話番号」叫んだのは健太君。
なるほどと思いながらこの村でこの電話番号を探すと、ある。正福寺の電話番号だ。
「これがどういうことなんだろう?」
みんな考えるが、答えは見つからない。
とりあえずメモは僕が預かることにした。
ホームズ探偵団の推理は途中で終わってしまったが、こんなことが夏休み中続くのかと思うと先が思いやられる。
八月一日金曜日
「お巡りさん、事件です」
と言って入ってきたのは健太君。
健太君が持ってきた紙には
「年をとるほど若くなるものは?」
と書かれていた。
「これはなぞなぞじゃないのかい?」と言うと
「そうとも言います」と健太君。
「解決してくださいね、お巡りさん」と言って出ていった。
暫く紙を眺めていたが、全く分からない。あとで考えることにする。
夜、なぞなぞのことを思い出し考えてみるが何も浮かばない。
諦めて寝ようと思っても、気になって眠れない。たいした答えではないのだろうと思えば思うほど眠れない。
いろいろと本を取り出してみるが、なぞなぞが載った本などない。
夜遅くに電話も出来ない。
子供の頃に聞いたなぞなぞを思いだそうとするが、殆ど思い出せない。
今夜は眠れそうにない。
※答えはアルバムの写真だそうだ。
八月十五日金曜日
正午のサイレンが鳴ったとき、高島のおばあちゃんは仏壇の前で両手を合わせていた。
おばあちゃんは十八歳の時、一度も会ったことのない人の所へ嫁いできた。旦那さんは建築現場の主任で、大阪で工場や映画館を建てたことのある人だ。しかし家では、旦那さんの両親と一緒に田や畑の作業をさせられていた。 今までに土をいじることなんてしたことがなかったので、毎日辛くて泣いていたという。
結婚して直ぐに、旦那さんは朝鮮へいった。
戦争のためだ。そのあいだに長女が産まれ、一時帰国し再び朝鮮へ行ったときに長男が産まれた。帰国してゆっくりと過ごすまもなく、今度はニューギニア島へ行った。そのときに産まれた次女の顔を見ることはなかった。
終戦を迎えると、いつ帰ってくるのだろうと心待ちにしていた。どこどこのだれだれが帰ってきたという話を聞くと、家の人はいつ帰るのだろうと楽しみだった。
そしてある日、白い箱が届けられた。箱を開けると、中には小さな石が入っていた。それが、旦那さんだった。そのときおばあちゃんは泣き崩れたとという。
おばあちゃんは涙を流しながら話してくれた。僕も涙を流しながら聞いていた。
一人暮らしの老人たちと会うときは、僕は孫になって話を聞く。
八月十六日土曜日
盆と正月には、この村の人口は増える。都会へ出ている者たちが、一度に帰ってくるからだ。
そして思い出話をみんなで楽しむために、小学校のグラウンドで盆踊りが行われる。
朝早くから青年団が中心となって櫓が組立てられる。提灯が飾られ形が出来たあとは、綿菓子や金魚すくいなどの露店が並ぶ。全て村の人の手で準備される。
夕方六時頃、音楽が流れ始め太鼓が叩かれる。それを合図に、人々は集まってくる。
男たちは酒を飲み、久しぶりの再会に話を弾ませる。子供たちは、この日ばかりはと夜遅くまで遊び続ける決心をする。
女性を中心に出来ていた踊りの輪は、男や子供も混ざって次第に大きな輪へと膨らみ、いつの間にか二重三重の輪へと形を変えていく。
みんなが時間を忘れて踊り続ける。いつまでも音楽が流れ続ける。
そんな夏の日の夜。故郷を思い出す。
八月三十一日日曜日
夏休みも、もう終わりである。
最後だからと言って、健太君たちに誘われて川で泳ぐことになった。
細く小さな川だが、大人でも泳げるくらいの深さはあった。小さな滝もあり、健太君たちは大きな岩の上からその滝つぼへと飛び込んでいた。
僕も挑戦することにした。一度目は子供たちに笑われながら不格好な飛びかたをしたが、二度目以降は完璧な飛び込みだった。
飛び込みに飽きてくると、今度は魚を捕まえ始めた。
手掴みだ。岩の間や水草の間に手を入れてまさぐり、魚を捕まえる。
僕は魚に触れるのが精一杯で、捕まえることまでは出来なかった。
暫くすると、まいちゃんが来た。
親戚のお姉さんだと言って紹介してくれたのは、大学生のあゆみさん。
まいちゃんは健太君たちと遊び始めたので、僕が相手をすることになった。
まいちゃんの話が中心だったが、お互いの学校や仕事のことの話しもした。
その様子をニヤニヤしながら見ていたのはホームズ探偵団。罠にはまってしまったかなと思いながら、楽しい時間を過ごさせてもらった。
九月五日金曜日
狼が出たという話が、村中に広がっていた。
山仕事に行っていた村田さんが、夕方山を下りようとしていたときに見たという。
犬とは違うことは確からしかった。
怖いとは感じなかったと言っていたが、目と目が合ったとき暫くは動けなかったという。
狼の方から目をそらし、山の中へ消えていった。
日本狼は絶滅したと言われているが、広い山の中には何かが居るはずだと、村に住み始めてから思うようになっていた。
もし本当に狼だったとしたら、そっとしておいてやりたい。
九月十五日月曜日
今朝、インドへ旅行をしていた先輩が帰ってきた。早速みやげ話を聞くために、飲みに行くことにした。
先輩は三十歳を目前にして会社を辞め、旅に出た。六月から七月にかけて香港、中国、澳門を周り、八月には広島、長崎、沖縄をまわった。
僕には、彼が何をしたかったのかよく分からなかった。しかし彼は、自分の行動に満足していたようだった。
インドは貧富の差が激しい。これはいまだに身分制度が残っているからだという。高級車に乗り携帯電話を持ち歩いている人から、路上で生活をしている人まで、全てがインドである。
インドが他の国と違うところは、貧しい者がどんなに頑張っても豊かになることが出来ないということだ。アメリカンドリームやアジアンドリームというものがない。
貧しい者には働く場所さへ与えられない。だから物乞いをするしかない。子供も年寄りも。「お金をちょうだい。食べ物をちょうだい」と観光客に群がる。
五十年前の日本もこんな感じだったのだろう。インド人のガイドに言われて、そうかも知れないと思ったという。
インドには、ガンジーもマザーも生き続けている。それだけが救いだと友人は語っていた。
「アジアは素晴らしい」
これが先輩の言葉である。
九月二十日土曜日
事件とは、突然やってくるものである。
昨夜遅くに電話が鳴った。誘拐事件である。
誘拐されたのは十九歳の女子大学生。
帰りが遅いので心配していた両親の所へ、男の声で電話がかかってきた。荒っぽいしゃべり方で一千万円を要求してきた。 電話の内容や言葉遣いから、地元の人間の犯行であるだろうと考えられ、捜査が進められた。
捜査は本署の人間で行われ、僕はいつもの公務に戻った。
村始まって以来の事件である。
小さな村だから話は直ぐに広がり、色々な噂が飛び交った。
真実を確かめようと人々は集まったが、僕にも何も分からなかった。
捜査の進展が気になったが夜まで情報は入ってこなかった。
今日一日、何もなかったようである。
九月二十一日日曜日
事件とは、突然終わるものでもある。
朝早く電話が鳴った。
不振な男がうろうろしているということである。
眠い目をこすりながらパジャマの上から制服を着て出掛けた。
言われたところに男は居り、何をしているのかと聞くと「誘拐をしました」と答えた。
女性はすでに解放されており、自首するかどうか迷っていたところらしかった。
念のため手錠をかけて本署まで連行しようと思ったが、手錠を忘れてしまったようだった。本署に応援を頼み、手錠を借りて男に掛けた。 産まれて始めてのことだったので、手が震えていた。
事件は解決したが、僕ののんびりさが問題となった。
十月一日水曜日
今日、辞令が下りた。
今度からは、そうのんびりとは出来そうにもない。警察官らしくなれるだろう。人間らしくはなれないかもしれないけれど。
同窓会
映画館から出てきた僕に声をかけてきたのは光雄だった。
「全然変わってないな」とお互いに言葉をかけ、暫くの間思い出話を交わしていた。
光雄とは高校を卒業以来会っていなかった。同じクラスではあったが、仲がいいと言うほどでもなかった。
別れ際「同窓会をしよう」と光雄が言った。「そうだな」と軽く考えていたら「組長が仕切るんだよ」と言われた。
僕は三年四組の組長だった。
学級委員、クラス委員、或いは室長と他のクラスでは呼ばれていた。何故かうちのクラスだけは組長という呼び方だった。
卒業アルバムを広げると、その頃のことをいろいろと思い出した。そして何人かに電話を掛けてみた。結婚している奴、家を出ている者、などいた。皆、同窓会には賛成だった。
僕は皆からの返事を待つことにした。
「あっ、慶一。本当に久しぶり。家にいないって聞いてたから、どうしてるのかと思ってた。今、どこ? 上海! 仕事で? そうなのか。じゃあ直ぐに帰ってくるなんてできないよな? そうだよな。 残念だな。ずっと上海にいるのか? えっ、来年には帰ってくるのか。そうか。楽しみはその時まで。うん。取っておくことにするよ」
「やあ、忠志。久しぶり。えーっ、オーストラリア。今? 仕事? ワーキングホリデー。そうか、すごいな。あれっ、前してた仕事は? 直ぐ辞めてたの? 何だ、そうだったのか。で、いつまでするの? ワーキングホリデー。 決めてない? そうなのか。早く帰ってこいよ。会いたいから。うん。色々話を聞かせてよ。お土産も楽しみにしてるから」
僕は直美からの連絡を待っていた。
彼女は副組長で、いつも僕の隣りに居てくれた。頭が良く、行動力のある人だった。
僕は直美が好きだった。でも、何も言わなかった。近くにいるだけで良かった。
「直美? 本当に? イギリスに留学してるって聞いてたから。すごいよね。うん。働いて、お金貯めて、留学。なかなかのもんだよ。変わってないね。いつからイギリスに? もう一年になるのか。じゃあ、英語はバッチリ。 イギリスに行くことがあったら通訳を頼むよ。えっ、来週? 来週には帰ってくるの? 良かった。楽しみだよ。いろんな話聞きたいし、色々したい話もあるから。
早く会いたいよ」
「わたしも」
「全然変わってないな」とお互いに言葉をかけ、暫くの間思い出話を交わしていた。
光雄とは高校を卒業以来会っていなかった。同じクラスではあったが、仲がいいと言うほどでもなかった。
別れ際「同窓会をしよう」と光雄が言った。「そうだな」と軽く考えていたら「組長が仕切るんだよ」と言われた。
僕は三年四組の組長だった。
学級委員、クラス委員、或いは室長と他のクラスでは呼ばれていた。何故かうちのクラスだけは組長という呼び方だった。
卒業アルバムを広げると、その頃のことをいろいろと思い出した。そして何人かに電話を掛けてみた。結婚している奴、家を出ている者、などいた。皆、同窓会には賛成だった。
僕は皆からの返事を待つことにした。
「あっ、慶一。本当に久しぶり。家にいないって聞いてたから、どうしてるのかと思ってた。今、どこ? 上海! 仕事で? そうなのか。じゃあ直ぐに帰ってくるなんてできないよな? そうだよな。 残念だな。ずっと上海にいるのか? えっ、来年には帰ってくるのか。そうか。楽しみはその時まで。うん。取っておくことにするよ」
「やあ、忠志。久しぶり。えーっ、オーストラリア。今? 仕事? ワーキングホリデー。そうか、すごいな。あれっ、前してた仕事は? 直ぐ辞めてたの? 何だ、そうだったのか。で、いつまでするの? ワーキングホリデー。 決めてない? そうなのか。早く帰ってこいよ。会いたいから。うん。色々話を聞かせてよ。お土産も楽しみにしてるから」
僕は直美からの連絡を待っていた。
彼女は副組長で、いつも僕の隣りに居てくれた。頭が良く、行動力のある人だった。
僕は直美が好きだった。でも、何も言わなかった。近くにいるだけで良かった。
「直美? 本当に? イギリスに留学してるって聞いてたから。すごいよね。うん。働いて、お金貯めて、留学。なかなかのもんだよ。変わってないね。いつからイギリスに? もう一年になるのか。じゃあ、英語はバッチリ。 イギリスに行くことがあったら通訳を頼むよ。えっ、来週? 来週には帰ってくるの? 良かった。楽しみだよ。いろんな話聞きたいし、色々したい話もあるから。
早く会いたいよ」
「わたしも」
ミッドナイト・コール
深夜十二時、冷たい空気をかき混ぜるように電話が音を立てた。一回、二回、そして音を止めた。
突然のことだった。何の前触れもなく、陽子が言い出した。
「インドへ行くの。一人で。大変かもしれないけど。行ってみたかったの、ずっと前から。人生観が変わるかもしれないって言うし、自分を見つめ直すことが出来るかもしれないし。
うん。本当は今何をしていいのか分からないから、ただ逃げ出したいだけなのかもしれない。でも、もう決めたから。一週間か二週間。一月になるかもしれない。帰りたいと思うまで。
秀人に会いたいと思うまで。大丈夫。そんなに心配しなくてもいいよ。じゃあ、電話する。毎日、日本時間で夜中の十二時に。それくらいがいいでしょ。
いつも仕事で遅いから。呼び出し音を二回鳴らすから、それが元気な証拠。受話器は取らないでね。お金が掛かるし、それに会いたくなるかもしれないから。じゃあね」
あれから一週間。静けさを取り戻した部屋には、また冷たい空気が積もっていった。
何度も受話器を取ろうと思った。それで全てが終わるのなら、それでいいとも思った。でも、陽子ともう一度会えるのなら、笑顔で会いたかった。
もう何日この時間を過ごしているだろう。また秒針がゆっくりと頭を持ち上げ、そして重なった二つの針を追い越して行った。
電話が音を立てた。一回、二回、そして三回。鳴り続ける呼び出し音に戸惑いを感じた。そしてそれは不安へと変わっていった。僕は慌てて受話器を取った。
「ごめんなさい。直ぐに切るつもりだったんだけど。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんだけど。まだ何も見つからないし、何も分からないの。
時間だけは過ぎていくのに何も変わらないし、秀人に電話する時間ばかり気になってしまうの。段々焦ってきて、夜も眠れなくて、そしたらお腹を壊しちゃって。
薬飲んで一日中寝ていたら、私って何してるんだろうって、何でこんな所にいるんだろうって思って。秀人に会いたい。声が聞きたい…」
陽子は小さな声を震わせながら、僕に伝えてくれた。
どんな言葉を掛けてやればいいのか分からなかった。どんなに優しい言葉でも、創られた台詞のようで冷たいと思った。
僕は思ったままのことを口にした。
「もう、帰って来いよ。今度は二人でインドへ行こう」
受話器の向こうで、陽子は小さく頷いた。
突然のことだった。何の前触れもなく、陽子が言い出した。
「インドへ行くの。一人で。大変かもしれないけど。行ってみたかったの、ずっと前から。人生観が変わるかもしれないって言うし、自分を見つめ直すことが出来るかもしれないし。
うん。本当は今何をしていいのか分からないから、ただ逃げ出したいだけなのかもしれない。でも、もう決めたから。一週間か二週間。一月になるかもしれない。帰りたいと思うまで。
秀人に会いたいと思うまで。大丈夫。そんなに心配しなくてもいいよ。じゃあ、電話する。毎日、日本時間で夜中の十二時に。それくらいがいいでしょ。
いつも仕事で遅いから。呼び出し音を二回鳴らすから、それが元気な証拠。受話器は取らないでね。お金が掛かるし、それに会いたくなるかもしれないから。じゃあね」
あれから一週間。静けさを取り戻した部屋には、また冷たい空気が積もっていった。
何度も受話器を取ろうと思った。それで全てが終わるのなら、それでいいとも思った。でも、陽子ともう一度会えるのなら、笑顔で会いたかった。
もう何日この時間を過ごしているだろう。また秒針がゆっくりと頭を持ち上げ、そして重なった二つの針を追い越して行った。
電話が音を立てた。一回、二回、そして三回。鳴り続ける呼び出し音に戸惑いを感じた。そしてそれは不安へと変わっていった。僕は慌てて受話器を取った。
「ごめんなさい。直ぐに切るつもりだったんだけど。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんだけど。まだ何も見つからないし、何も分からないの。
時間だけは過ぎていくのに何も変わらないし、秀人に電話する時間ばかり気になってしまうの。段々焦ってきて、夜も眠れなくて、そしたらお腹を壊しちゃって。
薬飲んで一日中寝ていたら、私って何してるんだろうって、何でこんな所にいるんだろうって思って。秀人に会いたい。声が聞きたい…」
陽子は小さな声を震わせながら、僕に伝えてくれた。
どんな言葉を掛けてやればいいのか分からなかった。どんなに優しい言葉でも、創られた台詞のようで冷たいと思った。
僕は思ったままのことを口にした。
「もう、帰って来いよ。今度は二人でインドへ行こう」
受話器の向こうで、陽子は小さく頷いた。
木の葉
まだ、秋の終わりだというのに、とても風の強い寒い日でした。
さおりは身体を小さくして、薄暗くなってきた学校からの帰り道を急いでいました。
落ち葉が風に舞ってきれいでしたが、あまりにも寒いので、ゆっくりと見ていることは出来ませんでした。
…このままでは凍え死んでしまう…
と、思うほどでした。
近道をしようと、落ち葉の敷き詰められた小さな公園に、サクサクと入って行きました。公園にはもう誰もいなくて、とても寂しく感じました。
さおりは、急いで帰ろうと思いました。
真っ暗になった落ち葉の絨毯の中、わずかに明るくなっているところがありました。
…なんだろう…
と思い、そっと両手で落ち葉をかき分けました。
すると中から、黄金色に光った木の葉が一枚出てきました。
さおりは不思議な気分でしたが、木の葉をポケットに入れて、急いで家へと帰りました。
暖かい家に着いたとき、木の葉のことは忘れてしまっていました。
もうそろそろ寝ようかと考えているときにふっと思い出し、あわててポケットの中から黄金色の木の葉を取り出しました。
…何なんだろう、これ…
しばらく木の葉を見つめていました。
家の外は暗く、まだ強い風が吹いていました。
コンコンと窓をたたく音が聞こえたように思いました。さおりは何かが窓に当たったのかと思いましたが、しばらくするとまたコンコンと音がしました。
さおりは、そっと窓を開けました。
「ビューッ」と大きな音とともに、風が部屋中へ飛び込んできました。手に持っていた木の葉は風に飛ばされ、部屋の中を舞ったあと、さおりの頭の上に乗りました。
そのとき、さおりは「ポン」という大きな音とともに目の前が真っ白になり、しりもちをついてしまいました。
「いやあ、これはどうもすんません。驚かしてしもうて」
さおりが声のする窓の方をあわてて見るとそこには一匹のキツネがいました。
「キ、キツネがしゃべってる!」
さおりは驚きました。
「いやあほんと、驚かしてすまんけど、そういうあんさんもよう見てみい、キツネやで」
さおりはあわてて自分の身体を見回しました。そして、鏡ものぞき込みました。
完全にキツネです。
窓のところに突っ立っているキツネと同じ姿です。
「何これ! どういうこと! どうして!」
さおりはパニックです。
「説明しましょう」
キツネは窓から部屋に入ってくると、丁寧に窓を閉めて、話し始めました。
「今日は一日中風が強かったやろ。そもそもこれが原因なんや」
キツネの話しによると、今日は朝から「化けかたコンテスト」があったそうです。上手に化けるというだけでなく、きれいに化けるということが必要だそうです。
そして、なんと、このキツネがチャンピオンになったそうです。
「そう、このわたくしトロが、チャンピオンになったのです」
チャンピオンになったトロには、女王様から黄金色に輝く木の葉が贈られます。
ところが授賞式のとき、強い風が女王様とトロの間を駆け抜け、木の葉を持っていってしまったのです。
トロはもちろん、コンテストの関係者の全てが木の葉を探し回りました。
しかし木の葉は見つからず、夜になってしまいました。
そして、トロがもうあきらめかけていたとき、窓からこぼれる黄金色の光を見つけたのです。
それが、さおりの部屋だったのです。
「その木の葉は、そんじょそこいらの木の葉とは違うんや。そやから返してほしいんや」
さおりはもちろん返すつもりです。でも、
「どうしたら、もとに戻れるの?」
人間の姿に戻る方法が、分からなかったのです。
「な、何やて! さっきと同じようにやったらええんやんか。くるっと回って、ポンッ、て」
さおりには出来ませんでした。あのときはたまたま、そうなってしまっただけなのです。
何度かやってみようと挑戦しましたが、「ボテッ」としりもちをつくだけでした。
「あかんなあ」
「ごめんなさい。どうしよう?」
トロは考え込みました。
自分のことなら何とかなるのですが、教えるとなるとそんなに上手くはいきません。
「しゃあないなあ、女王様のとこへ行ってみようか。歳くってるだけやのうて、いろんなこと知ってるさかい、何かいい知恵持ってると思うんけどな」
キツネになってしまったさおりは、トロと一緒に、女王様のいるところへと向かいました。
女王様は優しい笑顔で、さおりたちを迎えてくれました。
トロが事情を話すと、女王様はうなずき、
「方法はある」
と言いました。
その方法とは、「満月の夜、その光を浴びながら呪文を唱え、変化の杖を頭にかざす」というものでした。
「運がいい」
女王様は言いました。
なんと、女王様はその呪文を知っていて、変化の杖まで持っていると言います。
それに今日は満月の夜です。
「ラッキー」
トロは叫びました。
「でも…」
さおりは空を見上げました。
空は、分厚い雲に覆われていました。今にも雨が降りそうな、そんな雲です。
「待つしかない」
女王様はそう言うと、目をゆっくりと閉じました。
みんな黙ったままで待っていましたが、強い風が吹くばかりで、分厚い雲は形を変えることはありません。
「このままじゃ、朝になっちゃう」
さおりはつぶやきました。
今日、このまま満月を見ることが出来ないと、今度は一月後になってしまいます。
「やだよう」
さおりは今にも泣き出してしまいそうです。
トロも泣きたい気持ちでいっぱいでした。
そのとき、女王様がすっと目を開きました。
すると、強く吹いていた風はピタリと止み、分厚い雲はちぎれていきました。
雲の間から、満月がゆっくりと顔をのぞかせてきました。
「わあーっ」
さおりとトロは、大きな声を出しました。
満月の明かりに照らされて、さおりは静かに立っていました。
女王様は呪文を唱えながら、変化の杖をさおりの頭にかざしました。
「ポンッ」と大きな音とともに、目の前が真っ白になったさおりは、またしりもちをついていました。
頭に乗っていた木の葉は、キラキラと輝きながら地面に落ちました。
「コンコンコン」と鳴きながら寄ってきたキツネは、木の葉をくわえると頭を二度、三度と下げました。
そして、年老いたキツネを囲むようにして森の中へと姿を消しました。
さおりはとても残念でした。人間の姿に戻ったとたんに、キツネの言葉が分からなくなってしまったのですから。
今度会ったときには、このままの姿でも話が出来るようになればいいのにと考えて、少しだけですがキツネについての勉強を始めました。
トロに会いたい。
さおりは満月の夜になると、この日のことを思い出します。
さおりは身体を小さくして、薄暗くなってきた学校からの帰り道を急いでいました。
落ち葉が風に舞ってきれいでしたが、あまりにも寒いので、ゆっくりと見ていることは出来ませんでした。
…このままでは凍え死んでしまう…
と、思うほどでした。
近道をしようと、落ち葉の敷き詰められた小さな公園に、サクサクと入って行きました。公園にはもう誰もいなくて、とても寂しく感じました。
さおりは、急いで帰ろうと思いました。
真っ暗になった落ち葉の絨毯の中、わずかに明るくなっているところがありました。
…なんだろう…
と思い、そっと両手で落ち葉をかき分けました。
すると中から、黄金色に光った木の葉が一枚出てきました。
さおりは不思議な気分でしたが、木の葉をポケットに入れて、急いで家へと帰りました。
暖かい家に着いたとき、木の葉のことは忘れてしまっていました。
もうそろそろ寝ようかと考えているときにふっと思い出し、あわててポケットの中から黄金色の木の葉を取り出しました。
…何なんだろう、これ…
しばらく木の葉を見つめていました。
家の外は暗く、まだ強い風が吹いていました。
コンコンと窓をたたく音が聞こえたように思いました。さおりは何かが窓に当たったのかと思いましたが、しばらくするとまたコンコンと音がしました。
さおりは、そっと窓を開けました。
「ビューッ」と大きな音とともに、風が部屋中へ飛び込んできました。手に持っていた木の葉は風に飛ばされ、部屋の中を舞ったあと、さおりの頭の上に乗りました。
そのとき、さおりは「ポン」という大きな音とともに目の前が真っ白になり、しりもちをついてしまいました。
「いやあ、これはどうもすんません。驚かしてしもうて」
さおりが声のする窓の方をあわてて見るとそこには一匹のキツネがいました。
「キ、キツネがしゃべってる!」
さおりは驚きました。
「いやあほんと、驚かしてすまんけど、そういうあんさんもよう見てみい、キツネやで」
さおりはあわてて自分の身体を見回しました。そして、鏡ものぞき込みました。
完全にキツネです。
窓のところに突っ立っているキツネと同じ姿です。
「何これ! どういうこと! どうして!」
さおりはパニックです。
「説明しましょう」
キツネは窓から部屋に入ってくると、丁寧に窓を閉めて、話し始めました。
「今日は一日中風が強かったやろ。そもそもこれが原因なんや」
キツネの話しによると、今日は朝から「化けかたコンテスト」があったそうです。上手に化けるというだけでなく、きれいに化けるということが必要だそうです。
そして、なんと、このキツネがチャンピオンになったそうです。
「そう、このわたくしトロが、チャンピオンになったのです」
チャンピオンになったトロには、女王様から黄金色に輝く木の葉が贈られます。
ところが授賞式のとき、強い風が女王様とトロの間を駆け抜け、木の葉を持っていってしまったのです。
トロはもちろん、コンテストの関係者の全てが木の葉を探し回りました。
しかし木の葉は見つからず、夜になってしまいました。
そして、トロがもうあきらめかけていたとき、窓からこぼれる黄金色の光を見つけたのです。
それが、さおりの部屋だったのです。
「その木の葉は、そんじょそこいらの木の葉とは違うんや。そやから返してほしいんや」
さおりはもちろん返すつもりです。でも、
「どうしたら、もとに戻れるの?」
人間の姿に戻る方法が、分からなかったのです。
「な、何やて! さっきと同じようにやったらええんやんか。くるっと回って、ポンッ、て」
さおりには出来ませんでした。あのときはたまたま、そうなってしまっただけなのです。
何度かやってみようと挑戦しましたが、「ボテッ」としりもちをつくだけでした。
「あかんなあ」
「ごめんなさい。どうしよう?」
トロは考え込みました。
自分のことなら何とかなるのですが、教えるとなるとそんなに上手くはいきません。
「しゃあないなあ、女王様のとこへ行ってみようか。歳くってるだけやのうて、いろんなこと知ってるさかい、何かいい知恵持ってると思うんけどな」
キツネになってしまったさおりは、トロと一緒に、女王様のいるところへと向かいました。
女王様は優しい笑顔で、さおりたちを迎えてくれました。
トロが事情を話すと、女王様はうなずき、
「方法はある」
と言いました。
その方法とは、「満月の夜、その光を浴びながら呪文を唱え、変化の杖を頭にかざす」というものでした。
「運がいい」
女王様は言いました。
なんと、女王様はその呪文を知っていて、変化の杖まで持っていると言います。
それに今日は満月の夜です。
「ラッキー」
トロは叫びました。
「でも…」
さおりは空を見上げました。
空は、分厚い雲に覆われていました。今にも雨が降りそうな、そんな雲です。
「待つしかない」
女王様はそう言うと、目をゆっくりと閉じました。
みんな黙ったままで待っていましたが、強い風が吹くばかりで、分厚い雲は形を変えることはありません。
「このままじゃ、朝になっちゃう」
さおりはつぶやきました。
今日、このまま満月を見ることが出来ないと、今度は一月後になってしまいます。
「やだよう」
さおりは今にも泣き出してしまいそうです。
トロも泣きたい気持ちでいっぱいでした。
そのとき、女王様がすっと目を開きました。
すると、強く吹いていた風はピタリと止み、分厚い雲はちぎれていきました。
雲の間から、満月がゆっくりと顔をのぞかせてきました。
「わあーっ」
さおりとトロは、大きな声を出しました。
満月の明かりに照らされて、さおりは静かに立っていました。
女王様は呪文を唱えながら、変化の杖をさおりの頭にかざしました。
「ポンッ」と大きな音とともに、目の前が真っ白になったさおりは、またしりもちをついていました。
頭に乗っていた木の葉は、キラキラと輝きながら地面に落ちました。
「コンコンコン」と鳴きながら寄ってきたキツネは、木の葉をくわえると頭を二度、三度と下げました。
そして、年老いたキツネを囲むようにして森の中へと姿を消しました。
さおりはとても残念でした。人間の姿に戻ったとたんに、キツネの言葉が分からなくなってしまったのですから。
今度会ったときには、このままの姿でも話が出来るようになればいいのにと考えて、少しだけですがキツネについての勉強を始めました。
トロに会いたい。
さおりは満月の夜になると、この日のことを思い出します。
自信があるんだ
幼稚園に行っていたときのことだから、もう随分昔のことになる。
どこへ行ったのかは忘れたが、遠足の帰りだったと思う。電車の中、次の駅でみんなが降りるというときだった。 誰かが「どちらのドアが開くか?」ということを言った。僕は迷わず片方のドアを指さした。しかし、一緒にいた友だちはみんな反対側を指した。 自信のあった僕は、なぜこんなことが分からないのかという気持ちだった。話がまとまらないので、園長先生に聞いてみようということになった。 自分が正しいということを証明してくれると思っていた僕には、ショックが大きかった。園長先生の指は、僕とは反対の方向を向いていた。 納得が出来なかった僕は「間違っていたら、降りるなよ」というようなことまで言っていた。
結局、間違っていたのは僕の方だった。僕はみんなとは離れて、後ろの方を改札に向かって歩いていた。
なぜそんなに自信があったのか、なぜそんなことまで言ってしまったのか、今の僕には分からない。ただ一つ言えることがあるとしたら、僕は方向音痴だということだ。
どこへ行ったのかは忘れたが、遠足の帰りだったと思う。電車の中、次の駅でみんなが降りるというときだった。 誰かが「どちらのドアが開くか?」ということを言った。僕は迷わず片方のドアを指さした。しかし、一緒にいた友だちはみんな反対側を指した。 自信のあった僕は、なぜこんなことが分からないのかという気持ちだった。話がまとまらないので、園長先生に聞いてみようということになった。 自分が正しいということを証明してくれると思っていた僕には、ショックが大きかった。園長先生の指は、僕とは反対の方向を向いていた。 納得が出来なかった僕は「間違っていたら、降りるなよ」というようなことまで言っていた。
結局、間違っていたのは僕の方だった。僕はみんなとは離れて、後ろの方を改札に向かって歩いていた。
なぜそんなに自信があったのか、なぜそんなことまで言ってしまったのか、今の僕には分からない。ただ一つ言えることがあるとしたら、僕は方向音痴だということだ。
帰り道
家から小学校までの道のりは、僕たちの勉強の場でもあった。特に帰り道は、行きよりも時間をかけていた。
花を摘んだり、虫を捕まえたり、たんぽぽの綿帽子を飛ばしたり、じゃんけんに負けると鞄を持ったり、空き缶や石を蹴りながら歩いたり、アケビを採って食べたり、雨の中ずぶぬれになって走ったり、水たまりに飛び込んだり。
稲刈りの済んだあとの田圃は、僕たちの行動範囲を広げてくれた。
野球をしたり、鬼ごっこをしたり、かくれんぼ、ふるさら、たんてい、雪合戦。いつも走りまわっていた。
同じ道を歩いてみて、そういうことを思い出した。
花を摘んだり、虫を捕まえたり、たんぽぽの綿帽子を飛ばしたり、じゃんけんに負けると鞄を持ったり、空き缶や石を蹴りながら歩いたり、アケビを採って食べたり、雨の中ずぶぬれになって走ったり、水たまりに飛び込んだり。
稲刈りの済んだあとの田圃は、僕たちの行動範囲を広げてくれた。
野球をしたり、鬼ごっこをしたり、かくれんぼ、ふるさら、たんてい、雪合戦。いつも走りまわっていた。
同じ道を歩いてみて、そういうことを思い出した。
螢川
いつもなら 父と行く筈なのに
何故かこの時は 母と出掛けた
竹箒を持ち
首から虫篭をぶら下げて
暗闇を
母の照らす懐中電灯の光を頼りに
歩いていた
辺りは蛙の鳴き声で賑やかで
時折静かになっては
誰の合図でか 一斉に鳴き始める
川の流れが聞こえる頃
母は立ち止まり
「ほら、あそこ」
と言ってゆびを指す
その向こうには
宙を舞う幾つかの光が見える
その光は
点いては消え 消えては点く
幾つかの光が 同時に放たれることもある
その光を追いかけて ボクは走る
あるときは橋の上を
あるときは川原を
時には冷たい水の流れに足を入れ
竹箒を振り回す
箒に引っかかった光は
ボクの手の中に移され
虫篭の中に入る
幾つもの光で溢れる虫篭は
夢の世界への入り口だった
母はその中へ水草を入れ
一晩だけ部屋へ飾ってくれる
「ずっと篭の中じゃ、かわいそうでしょ」
翌日 学校から帰ってくると
篭の中は空っぽになっている
そしてまた
ボクは竹箒を持って出掛ける
何故かこの時は 母と出掛けた
竹箒を持ち
首から虫篭をぶら下げて
暗闇を
母の照らす懐中電灯の光を頼りに
歩いていた
辺りは蛙の鳴き声で賑やかで
時折静かになっては
誰の合図でか 一斉に鳴き始める
川の流れが聞こえる頃
母は立ち止まり
「ほら、あそこ」
と言ってゆびを指す
その向こうには
宙を舞う幾つかの光が見える
その光は
点いては消え 消えては点く
幾つかの光が 同時に放たれることもある
その光を追いかけて ボクは走る
あるときは橋の上を
あるときは川原を
時には冷たい水の流れに足を入れ
竹箒を振り回す
箒に引っかかった光は
ボクの手の中に移され
虫篭の中に入る
幾つもの光で溢れる虫篭は
夢の世界への入り口だった
母はその中へ水草を入れ
一晩だけ部屋へ飾ってくれる
「ずっと篭の中じゃ、かわいそうでしょ」
翌日 学校から帰ってくると
篭の中は空っぽになっている
そしてまた
ボクは竹箒を持って出掛ける
まほろば
-どっから来たん-
ゲートボールで賑わうグランドの片隅で
木陰に腰を下ろして休憩中の
おじいちゃん おばあちゃん
神野山へハイキングの僕たちに
声をかけてきた
-いいとこでしょう ゆっくりしていってね-
-あんたら夫婦か? あはははは-
-誘拐したんと違うやろな-
-帰りにも寄りや 一杯ご馳走するから-
このあたりは
時間の流れが他とは違う気がした
穏やかで
優しい風が流れていて
空気が殺伐としているのではなく
温かで
そう感じられるこの場所の
そう遠くない所で
残忍な事件があった事実は変わらない
優しい場所なのにと
複雑な感じを持ちながら
頂上にたどり着いたときには
爽やかな風に全てを流されていた
小さな旅のしおりには
短い歌が書かれていた
まさに そんな気分だった
大和は
国のまほろば
たたなづく青垣
山ごもれる
大和しうるわし
ゲートボールで賑わうグランドの片隅で
木陰に腰を下ろして休憩中の
おじいちゃん おばあちゃん
神野山へハイキングの僕たちに
声をかけてきた
-いいとこでしょう ゆっくりしていってね-
-あんたら夫婦か? あはははは-
-誘拐したんと違うやろな-
-帰りにも寄りや 一杯ご馳走するから-
このあたりは
時間の流れが他とは違う気がした
穏やかで
優しい風が流れていて
空気が殺伐としているのではなく
温かで
そう感じられるこの場所の
そう遠くない所で
残忍な事件があった事実は変わらない
優しい場所なのにと
複雑な感じを持ちながら
頂上にたどり着いたときには
爽やかな風に全てを流されていた
小さな旅のしおりには
短い歌が書かれていた
まさに そんな気分だった
大和は
国のまほろば
たたなづく青垣
山ごもれる
大和しうるわし
ふるさと
友だちと一緒に潜っていた川は
コンクリートで塗り固められ
蛍の姿も少なくなった
夜空に輝き続ける星たちも
随分数が減っていた
学校の鉄棒や滑り台も
小さくなっていた
変わらないのは
メタセコイアの木だけ
グラウンドの隅に一人で立ったまま
ボクノコトヲオボエテイルカイ
木の葉を揺らす風の声は
昔のままだった
コンクリートで塗り固められ
蛍の姿も少なくなった
夜空に輝き続ける星たちも
随分数が減っていた
学校の鉄棒や滑り台も
小さくなっていた
変わらないのは
メタセコイアの木だけ
グラウンドの隅に一人で立ったまま
ボクノコトヲオボエテイルカイ
木の葉を揺らす風の声は
昔のままだった
Mへ
一人暮らしの留守電のメッセージは
いつも淋しい知らせばかり
君が亡くなったときも同じだった
学校の帰り道
笑顔で話す君のことが忘れられない
もう どこを探しても君を見つけることはできない
目の前を通り過ぎる人たちが 全て君に見える
いつも淋しい知らせばかり
君が亡くなったときも同じだった
学校の帰り道
笑顔で話す君のことが忘れられない
もう どこを探しても君を見つけることはできない
目の前を通り過ぎる人たちが 全て君に見える
登録:
投稿 (Atom)